6月20日 写教の会を開催しました

今回は天親章の最後になります「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」の2句について見ました。この2句は『浄土論』の還相回向を謳っているところが典拠になっております。還相回向に関しましては、迷っているあらゆる衆生を救うという大慈悲心が一番にあるわけです。自分一人だけではなく共に救われていくという大乗仏教の慈悲の精神が還相回向にあらわれているのです。その慈悲の心が仏になることにおいてはじめて実践することがかなうということが一つ言えるかと思います。しかし、今のこの私においてどう還相回向がはたらきかけているかが大事で、それは教え、南無阿弥陀仏と称えよという呼び声そのものが還相回向と言えるのではないと思っております。その実践は遊ぶようになされる。これが面白いことだと思います。

煩悩の林生死の園、つまり迷いの身迷いの世界に遊ぶようにはたらきかけるのだとあります。この遊ぶということには、「自在の義」があるのだと曇鸞大師は言います。曇鸞大師は自在の義を明らかにするために一つの譬えを出しております。それは、獅子が鹿を捉えるのに困難がないようなものだという譬えです。これは、ライオンが強くて鹿は弱いから何の困難もなく鹿を捕まえるということを言いたいのではありません。ライオンも狩りをするには相当に苦労をするわけです。狩りの成功率もそこまで高いわけではないのです。それでは困難がないとはどういうことかというと、純粋ということです。自然ということです。鹿をとらえるという行為に抵抗がないことを困難がないというのです。存在と行為が一つになっていることが遊びという語で表されているのです。つまり、仏が仏として生きるということは、衆生を救う以外にないのです。その存在と行為が一つになっている姿が「遊び」なのです。自在に衆生をたすけるはたらきをここでは讃えておられるのです。

次回は7月18日(月)14時~になりますので、お時間ございましたらご参加ください。初めての方の参加もお待ちしております。