9月23日 名響寺秋の彼岸会を厳修しました
今年の秋の彼岸会では『歎異抄』第二条において語られる、いなかの人々が身命を顧みず「往生極楽の道」を問い聞こうとする思いに「地獄は一定すみかぞかし」と応える親鸞聖人の言葉について考えていきました。
親鸞聖人は関東の草庵でも「ただ念仏して弥陀にたすけられて往生する」ということを伝えておられました。それなのに、改めて「往生極楽の道を問い聞」くために身命を顧みずに訪れたということは、いなかの人々がただ念仏に満足できないというか、ただ念仏申すだけで本当に極楽浄土に往生できるのであろうかという不安を感じていたことを親鸞聖人は見抜かれたのだと思います。その思いを見抜いたうえで、改めて私親鸞においては「ただ念仏」の教えしか伝えることはないのですよと言い、さらには「地獄は一定すみかぞかし」とまで言い切るのです。いなかの人々が往生極楽の道を聞きたいという心の裏には地獄におちたくないという思いがあったでしょうから、さぞかし驚かれたであろうと想像されます。
地獄について考察しながら、どういう思いで親鸞聖人が「地獄は一定すみかぞかし」と言い切られたかについて以下のように考えていきました。親鸞聖人が、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という法然上人を受けて「地獄は一定すみかぞかし」と語るところには、地獄の苦しみを離れて安らかな極楽浄土に生まれるというような仏道ではなく、阿弥陀さんの智慧と慈悲のはたらきを受けて地獄の苦しみを生き抜いていける仏道ということをいなかの人々に伝えたい思いがあったのではないかと思います。地獄に行くのはいやだ、この世の苦しみから離れたいという要求思いがあって、苦しみのない所を願うのは自然のことだと思います。『観無量寿経』で、息子が夫を殺し、自分までも殺そうとする縁にあった韋提希夫人がお釈迦様に愚痴をこぼし「広く憂悩なきところ」を願うのと同じ感覚です。しかし、その感覚では極楽浄土は自分が勝手に思い描く理想郷になってしまいます。阿弥陀の浄土は理想郷ではないですね。彼岸というのは浄土、そして此岸というのはこの世界を言うわけですが、それが単に極楽と呼ばれるような苦しみのない世界と、娑婆世界と呼ばれる耐え忍ぶ世界ということで話をしているのとは違うのだということです。往生極楽の道というのは、苦しみのない道ではないですし、ただ念仏の教えは極楽に往生する手段方法でもないというのが、真宗の教えだと思います。縁によって様々な苦楽に遇っていきますが、その全てに阿弥陀さんの慈悲、支え救けを感じて生きていく。それが「地獄は一定すみかぞかし」という言葉に覚悟としてあらわれているのではないかと思います。
台風が近づいている中、お参りいただきまして誠にありがとうございました。また、来月24日(月)14時~報恩講が勤まりますので是非ともお参りくださいませ。