11月14日 写教の会を開催しました

今日は「三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」のところを見ました。最初に「三不三信」とありますが、これは「三不信」と「三信」という2つのことを言っているのですが、三不信いうことを仰ったのは実は道綽禅師ではなく曇鸞大師なのです。親鸞聖人は正信偈では三不信ということは曇鸞章では直接詠われていませんが、高僧和讃では何首かにわたって謳っておわれます。ではこの三不信とは何かといいますと、曇鸞大師が、南無阿弥陀仏と念仏申しても尚無明が残り所願が明確にならないのは、一体なぜかということを自問自答してたどり着いた三種の不信心です。それは「一には信心淳からず、存せるがごとし、亡ぜるがごときのゆえに。」の信心不淳。そして「二つには信心一ならず 決定なきゆえに」の信心不一。そして「三つには信心相続せず 余念間つるがゆえに」の信心不相続です。

具体的に見てみますと、信心不淳というのは混じり気のある信心ということです。その混じり気とは人間の分別です。これだけ良い事をすれば、さぞかし良い事が起こるだろう。或いはあんな悪い事をしたからこんな罰を受けたのだとか。このように人間のはからい分別の心で南無阿弥陀仏の教えを信じているのだと。少し難しい言葉を使うと罪福信が不淳の信心です。次に信心不一ですが、一というのは決定ということです。不一というのは決定していない。余仏余善を頼みにする心が残る心を信心不一と言います。最後に信心不相続です。不相続のところで「余念間つる」というのは、念仏と念仏の間に余念が入って、念仏申す心が一続きにならないことを言います。例えばお寺で仏法の話を聞いている時はやはり南無阿弥陀仏と念仏申す心が起こっても、一歩外に出るとその心はどこかに行ってしまうようなことです。この三不信は別のことを言っているのではなく、不淳であるから不一、不一であるから不相続というように展転していきます。

この曇鸞大師が仰った三不信を道綽禅師は、真実の信心として、淳心・一心・相続心の三信として明らかにして下さったのです。このお仕事を親鸞聖人は讃えておられるのです。曇鸞大師は自問自答、いわば自己の信仰批判の中で三不信ということを仰ったのですが、道綽禅師はそれを真実の信心として、その信心において生きていく仏道というものを身をもって示して下さったのです。親鸞聖人はこれらの三信は如来より賜ったというところで頂いていきますので、親鸞聖人の信心の眼から見ますと、道綽禅師が三信として仏道を明らかにして下さったお仕事は信心の仏道が真宗の道であることを道綽禅師が示してくださったという讃嘆になります。そのことを、「三不三信誨慇懃」という言葉で讃えておられるのです。

最後に「一生造悪」という言葉に触れておきたいと思います。なかなかにインパクトのある言葉で、生まれてから亡くなるまで悪を造る存在。それが自分のこととしてはなかなか受け入れられない気がします。これはその下に続く「値弘誓」とありますが、本願に出遇ったということがなければ「一生造悪」という自覚はないのだと思います。「一生造悪」の身のために起こしてくださった本願です。そこにかたじけないという思いが生まれるのだと思います。今日で道綽章は終わりますが、時機の自覚に立って浄土の仏道(教・行・信・証)を歩まれた道綽禅師を親鸞聖人は讃えておられるのです。

次回は12月12日(月)14時からになります。善導大師に入っていきますので、是非ご参加ください。