11月27日 親鸞聖人御命日の集いを開催しました

来春に親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年の慶讃法要が厳修されます。そこで、来年2月まで御命日の集いの中でお勤めの練習をやってまいります。今月は念仏讃の初重について息継ぎのタイミングを中心に練習しました。12月は二重、1月は三重、2月は回向文とまとめという流れでやっていきたいと思います。

今月の『御文』は「仏凡一体」ということが大きなテーマとなっている御文です。御文でどのように説かれているかを見ますと、「すでに行者のわろきこころを、如来のよき御こころとおなじものになしたまうなり。このいわれをもって仏心と凡心と一体なるといえるはこのこころなり。」とあります。念仏者と阿弥陀さんの心が同じものになる。これはどういうことなのでしょうか。わろき心というのは、縁によって様々な感情が出てきて自他ともに傷つけていく心、善悪のはからいでもって全てを捉えていく心と考えられます。そして、阿弥陀さんのよき御心というのは、そのようなものをこそたすけたいという慈悲の心でしょう。そのわろき心とよきこころがおなじものになる。これは、善悪で述べられているので対比のように見えてしまいますが、仏心凡心は比べられるようなものではありません。思うに、南無阿弥陀仏と念仏申すところで阿弥陀さんの心に触れて、わろき心の自覚を持ち、阿弥陀さんの心をよき心と仰いでいく。わろき心とよきこころが南無阿弥陀仏をとおして通じていく。そのようなことが思われます。似たようなことで「生死即涅槃」ということがありますが、迷いが「即」涅槃なのだと。これも念仏者の頷きではありますが、念仏者のはからいではなく、阿弥陀さんのはたらきを受けてはじめて「即」ということが言えるのだと思います。今、蓮如上人は「おなじ」ということで仏心凡心一体の内実を、「これによりて、弥陀如来の遍照の光明のなかにおさめとられまいらせて、一期のあいだはこの光明のうちにすむ身なりとおもうべし。」と語ります。これが、とても大事なところです。一期のあいだ、つまり一生涯阿弥陀さんの心のなかに生きるということが、仏心凡心が一体であるということなのです。わろき心がよき心と同じになって立派な者になるとかそういう話をしているわけでは決してないのです。阿弥陀さんの光明のなかに住む身として生きていく。ここに人と生まれた喜びというものがあるのではないかと思います。

そして『唯信鈔文意』では『法事讃』の「随縁雑善恐難生」「故使如来選要法」について見ました。「随縁雑善恐難生」の所で親鸞聖人は、随縁雑善という言葉を、自力の善根を修め、その功徳を極楽浄土の生まれるために回向する姿だと言います。いわゆる自力回向、こちらから浄土へという方向性のあゆみと見ます。そしてそれらは8万4千の法門なのだと親鸞聖人はいいます。そのような自力の善根をたのみとするようでは、平等の真実報土へは生まれることが出来ないのですよといなかの人々に伝えているわけです。「きらわるる」という表現もありますが、親鸞聖人はたまにこの「嫌う」という言葉をよくお使いになります。阿弥陀さんのこころに適わないということですね。この8万4千というのに対して、真宗の教えは「門余の仏道」であると親鸞聖人は説かれます。8万4千の教えとは質が違う。こちらの能力条件を一切問わない、仏からの仏道なのだというのです。だから平等ということが言えるのだというのが、親鸞聖人のいただきです。

次回は12月27日(火)14時~になります。仏具のおみがきも行いますので、是非ともご参加ください。