1月16日 写教の会を開催しました

前回、善導大師は、仏陀の心は「本為凡夫・兼為聖人」なのだと、教えの通りに生きられない凡夫をこそ救うという大悲の心なのだ、その大悲の心から起こされたのが本願だということを顕かにしてくださったことをみました。その本願の海に入る、身を浸かるということは、金剛の信心を賜ることなのだということからが今日のところになります。「行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」と親鸞聖人は謳っておられますが、「正受金剛心」とあるように、「受ける」のですね。私たちの信心は賜りものだというのです。ここは何度も話をしていることですが、真宗の信心は賜りたる信心です。そして、如来より信心を賜ると「与韋提等獲三忍」とあります。この三忍の「忍」は信心の智慧のことをいいます。信心によって身に賜るところの智慧を表す言葉です。そして、この三忍は、喜と悟と信を言うわけですが、喜というのは、自分自身を喜ぶ、自己の人生を喜ぶということです。悟は、人生の意味を悟る、私はこの教えにであうために生まれ変わり死に変わりしていたのだというものにであったということです。そして信は、その教えを信じ、その信によって共にという智慧を賜ることを言うのだと思います。私の人生を生きていける。これが三忍ということです。

『仏説観無量寿経』に出てくる韋提希夫人は、真宗の教えでは実業の凡夫と見ますが、それはどういうところで言うのか見ますと、息子のアジャセ王が父を殺し自分も殺そうとしたときに、自分の犯した過去の因縁を忘れて、「世尊、我、宿何の罪ありてか、この悪子を生ずる。」と釈尊に自分に何の罪があってあのような悪い子が産まれたのかといい、さらに、「唯、願わくは世尊、我がために広く憂悩なき処を説きたまえ。」と憂い悩みのない世界に生まれたいという場面が描かれているからです。三忍のところで話をしたことの逆で、自分の人生を受け入れきれない姿が描かれているわけです。それが、信心を賜ることにおいてちがった世界が開かれてくるのです。

宮城先生は信心を賜ってから救われるのではなく、信心を賜ったことが救いなのだと教えてくださっております。信心を賜ってはじめてこの自分の人生を生きていけるということが言えるのだということなのでしょう。

次回は2月13日(月)14時からになります。源信章に入ってまいります。