8月21日 写教の会を開催しました

 前回から『仏説阿弥陀経』の書写をはじめております。「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。」とあります。西方浄土という言葉がありますし、来月行われるお彼岸も太陽が真西に沈むということで勤まるとも言われますが、その根拠となっている文が今日のところです。何故西方なのか。これはそう説いてあるからとしか言いようがないのですが、日が沈むというところに、死後を重ねる。或いは「万物の終期」を感じさせるということが度々言われることです。方向は西。ではどれくらいの位置にあるかといえば、「十万億の仏土を過ぎたところにあり、そこに阿弥陀さんがおられる」と説かれます。これは大分遠い所にあるという印象を受けますね。一方『観無量寿経』にはどう説かれているかと繙きますと、「汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。」とあります。この表現の違いは面白いと感じると同時に何か大切なことを表しているようにも思えます。『観無量寿経』にある「いま」とは韋提希夫人が、悪のない清らかな世界に生まれたいと願い、その願いに応えて釈尊が蓮の花が綺麗に咲いている国や七つの宝でできた国など様々な仏土を見せます。それを経て韋提希夫人は阿弥陀さんの浄土に生まれたいと願う。その時が「いま」です。この二つの経典を見て気が付くことは、他の仏の国土を見るのか或いは過ぎるのかということで、遠く感じたり近く感じたりする違いがあるということです。諸仏の世界を過ぎるのではなく、見るということが阿弥陀さんの浄土に触れる大事な機縁ということがわかります。では、具体的に諸仏の国土を見るというのはどのようなことをいうのかと考えてみますと、それは、浄土への歩みを始めたら、すでに諸仏が自分の周りにいたということに気が付いたということだと思います。あらゆる人に諸仏として出会い直す。例えば、近しい方がその命を精一杯生き抜いた、生きているというところにその方の世界を見、そこに阿弥陀さんのはたらきを同時に見るということです。ただ、過ぎるのではなく、見る。『阿弥陀経』では、過ぎる虚しさを十万億土という途方もない遠さで表して、過ぎるのではなく、1人1人の命が阿弥陀さんに念じられている、願われている命であると見なさいと促しているように感じます。
 次回は9月11日(月)14時からとなりますので、お気軽にご参加ください。