今回は第三観「地想観」について語られているところを見ました。地想観では先の水想観にて説かれた浄土の大地の荘厳一つ一つをはっきりと、しかも睡眠時を除いて恒に見ることによって、ほぼ極楽浄土を見ることができると説かれています。そして釈尊は地想観の内容を説いた後、阿難に向かって未来世の衆生のためにこのことを伝えてほしいといい、さらに滅罪にも言及しています。これを受け、滅罪と命終の時について少し確かめました。
 次回は6月9日(月)14時からとなりますので、是非ご参加ください。…

 今回は第十七条について見ました。辺地に往生することの意味を地獄に堕ちる前段階として見る異義が取り上げられていますが、辺地に生まれることは疑いの罪を知らされるというところに大事な意味があり、辺地を説くところに如来の悲心があるのだと確かめました。
 次回は6月11日(水)14時からとなります。是非お参りください。…

 今回の『御文』は四帖目第二通について説かれる寿命について見ていく中で、念仏申し、念仏の教えを聞くことは、いつ死んでもいいという生命の満足というよりも、いつまででも生きていけるという生命の満足をたまわることなのではないかと確かめました。
 『一念多念文意』では、第十八願成就文について、親鸞聖人の読み方とそれ以前の読み方を比べてみながら、親鸞聖人が一念を一回の念仏としてではなく、信心と見ておられることや、至心回向するのは私たち衆生ではなく、阿弥陀如来であると確かめた。そこには、親鸞聖人が自身を常没の凡夫であるというところに立っておられるから見えてくのでしょう。また、「一念」の解釈で語られる「時のきわまり」について思うところを述べたが、はっきりと伝えることができなかったので、次回もう一度考えていきたいと思います。
 次回は5月27日(火)14時からとなります。…

 今回は前回の日想観に続き、第二観の「水想観」について見ました。水想観では、清らかで澄みきった水から、氷、そして浄土の瑠璃の大地を想い描くことが説かれていました。
 次回は5月12日14時から開催いたしますので、お気軽にご参加ください。…

 今回は『歎異抄』第十六条について語られる「回心」について見ました。第十六条では、親鸞聖人の教えを聞き念仏申す生活を営む者の中に「回心」を日々の反省のように捉えている異義が取り上げられています。日々の自身の行いを反省をすることは、決して悪いこととは言えませんが、その反省しよういう心に善人になって救われるという意識が隠れており、それは念仏往生においては大きな問題となることを唯円は教えてくださっています。
 次回は、5月7日(水)14時から、第十七条について見ていきましょう。…

 今年度は、「教えを聞き続ける場や機会が永代にわたって相続されていくようにと願われている」永代経を機縁に、念仏相続について、念仏が伝わってきて伝わっていくことについて皆さんと訪ねました。
 具体的には、たまたま教えに出会った者が、そこに感動と疑問を持ちながら、命のある限り考え続けていくことと、南無阿弥陀仏そのものが生きてはたらく仏であり、私も隣の人も南無阿弥陀仏に教化されていくことを確かめました。また、それは私の口からこぼれる念仏であり、その念仏は讃嘆の念仏でもため息まじりの念仏でも同じように、声を聞いたものに伝わっていくのでしょう。…

 今回から定善の観察が説かれてきますが、その第一の観である「日想観」について見ました。西方に沈む夕日を集中し正座をして観じていくことを通して心に浄土を想うことであると確かめました。
 次回は4月7日(月)14時からの開催となります。第二月曜日ではありませんのでご注意くださいませ。…

 今回は第十五条「さとりと信心の関係」を輪読いたしました。第十五条では、煩悩具足の身でありながらすでにさとりを得たというように主張する異義について説かれています。唯円は真言、法華の教義を提示しつつ、それらの道を懸命に歩む者であっても、この世で清らかな仏に成ることは不可能であるという。対して親鸞聖人の教えは「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」ということであり、今生に信心をたまわり、阿弥陀の浄土に往生してさとりを開くのだと説いている。…

 前回は復習という形で何故『一念多念文意』が著されることになったのか、一念義多念義のそれぞれの主張等を確かめました。今回から実際に『一念多念文意』の文章に学んでいきますが、東本願寺出版から聞法テキストとして『一念多念文意』が出ておりますのでこちらを見ながら読み進めていきます。
 最初の「一念をひがごとと思うまじき事」という見出しに続いて、「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」という善導大師の漢文が出てきます。隆寛律師がこの文を引用した意図は、無常というところに立って一念一念に忘れず怠らずに恒に願えという「恒願」に主眼が置かれているのであろうと思います。この「恒願」について『一念多念文意』で親鸞聖人は「恒」と「常」の違いを明示して、「恒」には「おりにしたごうて、ときどきもねがえというなり」と解釈し、一念一念に忘れず怠らない聖者の姿ではなく、業縁を生きる凡夫の姿に立って見ていかれている。縁が整ったときに自然とこぼれる念仏に仏のはたらきを感じて生きて行く。このことを善導大師の文は伝えて下さっていることを親鸞聖人は教えてくださっているのだと思います。…

 今回は、韋提希夫人が未来世の悪衆生が極楽世界を観ずる手立てを説くことを釈尊に請うことで、これから観想行が説かれるきっかけになる場面が描かれる「定善示観縁」と呼ばれるところを見ました。次回以降一つ一つの観想行を見ていきます。
 次回は3月10日(月)14時~となりますのでお気軽にご参加ください。…