
今年は関東大震災が起こって100年という年に当たるということを受け、メディアでも多くの特集が組まれておりました。関東大震災では、約10万人の方が亡くなったそうです。100年前を元号でいえば大正12年になります。私の祖母は大正14年の生まれなので、震災から2年後に産まれたわけです。祖母は東京の生まれなので、もし祖母の両親が震災で亡くなっていたら、今の自分というものはなかったのだろうなと、不思議と考えてしまいました。そして、今回の特集で特に取り上げられていたのが、震災直後に朝鮮人や行商人が、デマによって沢山殺害されたということでした。震災というパニック、受け入れ難い現実の置かれたなかで、朝鮮人が悪行をしている。それを懲らしめるのは当然で正義だということが、自分を立てていく手段になったのであろうと思います。そのような流れの中でも、警察署に朝鮮人を匿った方もおられたそうですが、自分にとって不都合なことに出会った時に、その事実とどのように向き合っていくかといったところに、教えというものがあるのではないかと考えさせられたことです。
今、私がある、生きていることの不思議をふと感じたわけですが、「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」というテーマが先の750回御遠忌の時に立てられました。もう10年以上前に立てられたテーマですが、今日はその「よろこび」ということを、皆さんと考えていきたいと思います。よろこび、という字は、御遠忌のテーマでは「喜」という字が使われておりますが、他にも「歓」や「慶」や「欣」などでもよろこびと読みます。またそれらを合わせて「歓喜」という熟語で経典にも出てきます。例えば『大無量寿経』の第18願成就文には「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。」とあります。また、親鸞聖人は特に「慶喜」という言葉をよくお使いになっておられます。身近なところで言えば正信偈で「信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん」と謳っておられます。
例に出した正信偈の言葉を親鸞聖人は『尊号真像銘文』で「大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。」と押さえてくださっております。独特の表現ですが、『唯信鈔文意』では「慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。」とあります。二つの「慶」の字の解釈を通してみますと、うべきことは信心であるということがわかりますが、普通に生きておりますと、自分が生まれきて「うべきこと」が何かがはっきりしないということがあるかと思います。それこそ、うべきことが「信心」であるとここに説かれていても、なかなか自分のこととしてはっきりとしない、自分が生まれてきて、うべきことは果たして信心なのだろうかという感覚です。最初に一緒に読みました三帰依文に、受け難くして人の身を既に受けていた、聞き難い仏法を既に聞いていたという表白がありますが、それを感動の言葉として読めるかということです。…