報恩講をお勤めしました(2019年10月24日)
先ず、ご多用中当日お参り下さった方、出欠のハガキを出して頂いた方に感謝の意を述べたいと思います。ありがとうございました。皆さまのお蔭様を持ちまして、週間天気予報では雨マークがついていて心配していた雨も降らずに、過ごしやすい気候の中2回目となります名響寺報恩講を勤修することができました事、大変ありがたく思っております。
今回はご法話を東京教区駐在教導の佐々木弘明氏から頂戴致しました。「今」という時について色々な角度からご考察頂きましたが、その中で私が特に印象に残った言葉は、
「これから(の生き方)が、これまで(生きた時間の意味)を決める。残された人生の有り方を今問われている。」
(原文は藤代聰麿先生。文中( )は佐々木氏の加筆)
というものです。普通はこれまでがこれからを決めると考えます。その場合には、一生懸命真面目に良い行いをすることで明るい未来があるというような道徳的な言葉となるかと思います。しかし、「これからがこれまでを決める」と言った時には、人間として生まれた意義、色々な事が起こってくる人生をどう生きるかが問題となる仏教の言葉となるのではないでしょうか。
人生良い事もあれば悪い事もあります。すべてが思い通りにいくことなどありません。どんなに真面目に生きていても人間はどうしても四苦八苦といわれる苦しみに縁によってあっていかなくてはなりません。その苦しみの世をどう生きて行くのか。そしてどこへ向かって生きて行くのか。その事をはっきりさせなさいと、「これからがこれまでを決める」という言葉で言おうとしているのだと思います。「これから」がはっきりしたところに「これまで」出遇った喜び楽しみ悲しみ苦しみ全ての縁に大切な意味があったと受け入れられるのではないでしょうか。人間がこの世に生まれ生きる事が「今」問われているのです。
また、ご法話の中でのもう一つ大事な確かめとして、私にどう生きて行くかを問わしめる過去・現在・未来の諸仏のはたらきかけがあるという事でした。その促しがなければ、人間として生まれても「これからがこれまでを決める」という大事な問題に出遇えません。「今」という時は、諸仏の促しによって自分の生き方有り方が問われている時なのだと教えて頂きました。
最後になりますが、名響寺では毎年10月24日と日にちで決めて報恩講を勤めておりますので、どうしても平日にあたってしまう事が多く、お仕事のためにお参り頂けない方には申し訳なく思っております。来年はたまたま土曜日にあたりますので、お時間がございましたら報恩講にお参り頂ければと思います。宜しくお願い致します。