11月27日名響寺おたいや

勤行…正信偈・同朋奉讃、和讃「弥陀大悲の誓願を」次第六首。『御文』一帖目第三通「猟漁」。

 今月の『御文』。

一帖目第三通「猟漁」。 この『御文』は、漁(狩猟)を生業とする者に宛てたものです。仏教は生きとし生ける全ての生命を尊重するので「殺生」は戒められるべき行為の第一に挙げられるものです。その行為は罪悪であり、そのまま救いから遠のく事を意味するため、「殺生」を生業とする者はどうしても救いから漏れていってしまうのです。それが当時を生きていた者の大方の思考でした。生業を捨てれば救われるかもしれないがそれでは生きてはいけない。生業を捨てなければ罪悪は消えない。そこに苦悩していた者に蓮如上人は、生業を捨てなくとも阿弥陀仏はあなたを決して見捨てないと語りかけるのです。そして、阿弥陀仏の誓いを信じて堂々と生きて行きなさいと言うのです。

 『唯信鈔』。

 今回は、前回見た聖覚が説く「聖道門」の復習。 そしてその聖道門に対しての浄土門の了解と、浄土門の中でさらに分かれる諸行往生と念仏往生の解釈を見て行きました。 

 聖覚は念仏だけでなく様々な善行(敬上の行や持戒布施忍辱や三密一乗の行)を修してその功徳を回向して浄土に生まれたいと願うことを諸行往生と言っているます。それらの行を「万行諸善」あるいは「諸善万行」という言葉でよく表します。一つ親鸞聖人の和讃を見ておきますと、「万行諸善の小路より、本願一実の大道に、帰入しぬれば涅槃の、さとりはすなわちひらくなり」と謳っておいでです。万行諸善という小さな路から、本願一実の大道に帰入する事を勧めておいでです。ちょうど今学んでいるところの要点を謳って下さっているかと思います。

そして「これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆえに。」と言って、その諸行往生では浄土に生まれないとは言い切れないと一応言ってあります。ですが「ただ」と言って2つの問題点を以下に挙げられます。その一つは「ただ、これはみずからの行をはげみて往生をねがうがゆえに、自力の往生となづく。行業、もしおろそかならば、往生とげがたし。」と言いわれる点です。聖覚はここで諸行往生の歩みに、自力という課題を見ています。つまり、浄土に生まれようと願い一生懸命になって修行をしても、それが縁によって疎かになる可能性がある、そういう自力の不確かさが問題になっているのです。そして二つ目に諸行往生をまとめる形で諸行往生の問題点を、「かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明のてらさざるところなり。」と言い諸行往生の最大の問題点は、阿弥陀の本願に順じていない点であり、それによって摂取不捨の光の中に身を置く事ができないというのです。諸行往生は駄目で棄て去るというよりも、諸行往生の行を通して、いよいよ念仏往生の確かさというものが頷かれてくるという感覚だと思います。諸行往生は達成できないことが、その大事な役割なのだと思います。今日の『御文』では、無理に悪い心を留める事を求めないということが、最初に語られていますが、悪い心を留めることのできない自分だと気付きなさいという事でもあろうかと思います。そこに気付き阿弥陀の本願を信じ念仏申す身には摂取不捨の光が照らすという事でした。

そして、諸行往生に対して念仏往生とはどのような歩みかと言えば、「阿弥陀の名号を称えて往生を願う」歩み、仏道だと聖覚は言います。称名念仏の他ないということです。そしてその仏道、歩みは諸行往生とは違い弥陀の本願に順じる道だと言うのです。それ故に、必ず阿弥陀の浄土の生まれる身と定まるのです。それは、こちらが励んで善行を修すことが往生を決めるのではなく、こちらが力む事無く阿弥陀の願力によって阿弥陀の浄土に生まれるのです。