1月28日 親鸞聖人御命日の集い
今回は、なぜ南無阿弥陀仏と称えることのみが阿弥陀の願いにかなうのかというところを中心にみました。聖覚は、念仏往生が阿弥陀の願いにかなう証として『大無量寿経経』に説かれる、阿弥陀仏の因位である法蔵菩薩の物語を取り上げます。聖覚はその中で、法蔵菩薩が世自在王仏に清浄な国を建てたいという願いをおこされ、その願いに応えた世自在王仏が多くの諸仏国の様子を見せ、法蔵菩薩がその中から選び取られて建立されたのが阿弥陀の浄土であること。また、その清らかな国にどのような者も生まれさせて救いたいと誓われたことを確かめます。
親孝行をしたり、大乗経典を読んだり、戒律を守り怠けずに修行をした者だけが浄土に生まれるというのは、そこに漏れてしまう者が必ず出てきてしまい阿弥陀の願いとは異なってしまいます。阿弥陀仏の願いは、どのような者も見捨てず嫌わず選ばずに浄土に生まれさせようというものです。南無阿弥陀仏と称えることは、いつでもどこでもだれでもできる易しい行です。その易しい行によってどのような者も阿弥陀の浄土に往生するのが浄土門の面目であり、南無阿弥陀仏と称えることのみが阿弥陀の願いにかなうのです。
次回はこの続きに、第17願「諸仏称名の願」のことが語られますのでそれを見て、さらに法照禅師の『五会法事讃』の一節が引用されてますので、その漢文で書かれた文意を親鸞聖人の『唯信鈔文意』に聞いていきたいと思います