春の彼岸会を勤修いたしました

 名響寺春の彼岸会を勤修いたしました。

式次第 伽陀「先請弥陀」 『仏説阿弥陀経』 正信偈同朋奉讃 御文五帖目第九通

今年の2月に東北大学の鈴木岩弓先生の「イエ亡き時代の死者の行方」という講義を拝聴しました。「イエ」という超世代的に存続されてきた制度がなくなり、子孫に後を任せて安心して亡くなっていくことが出来なくなった時に、自身が亡くなったら永代に亘る供養が約束された永代供養墓に入る事を望む方が増えているという事を教えて頂いた。私はそこで永代供養墓に入り定期的に回向供養をされるという事で本当に亡くなっていけるであろうか、今を生きていけるか、つまりは永代供養墓が拠り所となるのであろうかという疑問を持ちました。そこで今回は「イエ」について拠り所と永続性という事を念頭に置きながら阿弥陀の浄土について以下のように考察しました。

 経典では阿弥陀の浄土を「尊貴の家」(『大無量寿経』)「諸仏の家」(『観無量寿経』)という言葉で語っておられます。この家はどのような事を表しているのかという事について龍樹菩薩は、智慧の念仏を父とし大悲を母として阿弥陀仏にたすけられて往生する念仏者を生み出す事を「家」と表現しているのだと教えて下さっています。念仏者は、念仏申すところに自分の愚かさを知り、その自分を決して見捨てない大悲に包まれて生きる。念仏者は尊貴の家から生まれ、亡くなる縁にあえば阿弥陀仏にたすけられて尊貴の家に還っていく。それは多くの名もなき念仏者が歩まれた道であり歴史である。そして、南無阿弥陀仏と申して生き南無阿弥陀仏と申して亡くなっていった念仏者の歴史に自らも身を置くことに、家に永続性ということがあるのだと思います。その具体相は、「 前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり 」という志願に生きることだと思います。

コロナウイルスのために世界中が困難なことになっております。人間の思い通りにならない事に直面した時に改めて、自分が何を拠り所に生きているのかが問われるような気がしております。