9月22日 秋の彼岸会法要を厳修しました

 

名響寺秋の彼岸会法要を厳修しました。

式次第 伽陀「先請弥陀」『仏説阿弥陀経』正信偈同朋奉讃 『御文』四帖目第九通「疫癘」

今回は先月の盂蘭盆会法要の際に考えた「帰去来」帰ろうではないかという呼びかけ促しの声を聞く或いは声が聞こえるのはどういうことなのかを「二河譬」の教えを軸に見ていきました。

帰ろうではないか、という声を聞いたということは逆からいうと今私は帰る世界がないということでしょう。地獄が描かれる源信僧都の『往生要集』で最も苦しい無間地獄(阿鼻地獄とも言います)に堕ちた者の嘆きの言葉として「我今、帰する所なく、孤独にして同伴なし。」という言葉が挙げてあります。つまり、人間の苦しみのどん底は孤独ということなのです。二河譬の最初も「この人すでに空曠の迥なる処に至るに、さらに人物なし。」と始まります。私たちが浄土という世界を願う求める出発点は、依るべきものが何もなくただ広々としていて、見回してみても誰も一緒に歩みを進めてくれる人は誰一人いないという孤独、自分はただ広いところにポツンと立ちすくむ虚しさから始まっています。その孤独を背負った者が釈尊の「行きなさい」という声、阿弥陀仏の「来なさい」という声に護られながら西の岸に着くと「善友あい見て慶楽すること已むことなからんがごとし。」とよき友と会うのだと語られます。

一人、孤独という苦しみの中にいる者が、よき友を見出し、共に生きて行くことを喜べる世界に目覚めていくということが、呼びかけ促しの声を聞くことだと「二河譬」から教えられます。

 

10月24日(土)14時~報恩講を勤修する予定でおりますので、ご都合が合えば是非お参り下さい。