9月12日 写教の会を開催しました
今日は曇鸞章の最後となります「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土 諸有衆生皆普化」の所をみました。先ず「惑染凡夫」ということですが、惑というのは煩悩ということです。煩悩に染め抜かれているというのが凡夫である私たちの姿です。具体的に言えば我が身ひとつがかわいいというところ、自分中心というところを離れられないという悲しい存在が私たちです。そういう私たちのうえに信心が発起する。曇鸞大師が明らかにした信心は、仏を信じる心ではなくて、仏の心をいただいた賜った心です。その心をいただいことによって、生死すなわち涅槃ということが成就すると謳われます。生死というのは、動乱ということで、涅槃というのは寂静ということですので、生死即涅槃というのは矛盾した言葉です。この相反するものが即ということになる。他宗でも生死即涅槃ということは言うわけですが、その場合は生死というものを克服するという感覚が強く感じます。例えば「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉がありますが、精神統一というところに動乱を押さえて寂静なる世界を見て行くということが言われるわけです。しかし、真宗の教えは自分の力ではそんなことはできないという立場に身をおくのです。真宗は賜った信心のところでしか生死即涅槃ということは言えないということを言うわけです。ではその生き方とはどのようなことなのかが問題になってきます。この生死即涅槃というのは、「即」ですので生死を離れて特別な境地を得るということではありません。迷い動乱を離れないこの人生での事柄です。生死即涅槃について、例えば金子大栄先生は「生死に従っていける」ということで押さえて下さっておりますし、宮城先生は「生死を一心一向に生き抜ける」ということを仰っております。両先生方とも、迷いの命、迷い動乱の所に阿弥陀の願い、必ず拯うぞという願いを聞き信じて生きていくと押さえて下さっています。生死即涅槃は、火を涼やかに感じる者になっていくのではなく、火というところに阿弥陀さんのはたらきを感じて生きていく者になるといこと、迷っている悲しい存在を拯うということを感じて生きていくということになろうかと思います。
最後に「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」というところですが、阿弥陀さんの浄土を光明のはたらきが限りない世界として、無量光明土という名が立てられています。あらゆる衆生と共に仏道に向かえしめる、そういう歩みを賜る世界、前回の学びで言えば還相回向という報徳のあゆみが与えられる世界。それが無量光明土と名づけられている世界なのです。「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」は往相回向、「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」は還相回向のことを謳っているとも見えます。
次回は10月10日(月)14時~になりますので、お気軽にご参加ください。