3月13日 写教の会を開催しました
前回から源信章に入りましたので、その続きとなる「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」について見ていきました。極重の悪人はただ阿弥陀さんの名を称えなさいという事が出てきますが、これは『観無量寿経』の「下品下生」に説かれていることが元にあるわけですが、単に書いてあるということではなくて、ここに自身を見ているかということが大きな問題としてあると思います。下品下生のところにある救いが自らの救いであるということです。そこには、観想念仏などできない者は、口に南無阿弥陀仏と称えなさいと、称名念仏の救いが説かれております。その救いの内容というのが、最後の大悲無倦常照我という阿弥陀のはたらきです。これは、信心歓喜の内容でしょう。そして、その喜びの裏には、煩悩に眼をさえられて観想念仏ができない、煩悩具足という悲しみ、懺悔があるのです。阿弥陀さんの摂取不捨のはたらきの中にあるという信心歓喜をあらわす言葉として非常に大切にされてきた言葉です。