11月27日 親鸞聖人御命日の集いを開催しました
今日の『御文』(三帖目第三通)は河尻性光門徒に宛てたお手紙です。河尻というのは、現在でいえば吉崎別院がある所だそうです。そこにも、親鸞聖人の教えと異なった受け止めがなされているということです。二つの誤りが説かれています。そのうちの一つ、「無信単称」ということが今日読む『唯信鈔文意』のところにも関わってきますので着目しますと、無信単称というのは、ただ口に称名すれば極楽に往生するように思うということです。蓮如上人が度々注意を促してくださっているのが、その「いわれ」を知りなさいということでした。つまり、阿弥陀如来が全ての衆生を救いたいと思い立ち上がり念仏申せと仰ったのは、愚かな私一人を救うためであったと頷いていくことです。信というのは頷き、そうであったという頷き、私には念仏より他にたすかる法はないという頷きです。口に念仏申す。その姿は尊いです。入口はそれで充分なのです。ただ、それだけではもったいないということでしょう。お念仏の「いわれ」を聞いていく。「いわれ」を聞いて頷いて、いよいよ念仏申す身になっていく。そこが大事なのだと蓮如上人は伝えてくださっているのです。『唯信鈔』『唯信鈔文意』では、「念」は「称」であることが大きなこととして出てきます。観想念仏ではなく称名念仏という知見が善導大師によって明らかにされました。この無信単称という課題は、念仏というのは称名念仏なのだということが明らかになった後に出て来た課題ということになると言えましょう。その課題が別の形で表れたのが「一念多念という争い」です。
『唯信鈔文意』で第十八願文の言葉を解釈するところで、親鸞聖人は「乃至」という言葉をとおして、こちら側の条件がないことを教えています。本来、こちらからの条件はないのだけれど、衆生の方が色々とはからって一念義・多念義という優劣をつけ、往生に条件を付けていくのです。これは人間の業といいますか、法蔵菩薩の願いをも、自分の思うようにはからって、自分の解釈が正しい、善い解釈なのだとしていってしまう。そのような課題が親鸞聖人の時代にもあったのです。
次回のおたいやは12月27日になります。年末でお忙しいとは思いますが、仏具のおみがきもございますので是非お力添えください。