9月22日 名響寺秋彼岸会を厳修しました

 この度も春の彼岸会法要、盂蘭盆会法要に引き続き、「二河白道譬」についてたずねました。盂蘭盆会法要では、三定死のところまで読み進めまておりました。座して死を待つよりは、この道を進もうと旅人は決意します。すでにこの道があるというのは、私が道を開拓するのではなく、名も知らぬ多くの人が同じように渡った道だということでしょう。たとえ及ばずとも、この足跡をたどって進もう。こう思い立った時、旅人は後ろの東岸から勧める声を聞くのでした。東岸の声は、発遣と呼ばれます。発遣というのは、あなたの求道の道を勇気をもって進んで行けと、勧め励ますことです。これは、教えという意味を持ちます。例えば六角堂に百日参籠して出会った法然上人の教えは、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし。」でした。この教えは親鸞聖人を生涯励まし続け、あゆみを進ませます。そして、発遣の声を聞き、旅人が白道を渡ろうと思い立つとき、今度は西岸上よりの招喚の声を聞きます。これは、思い立ってから聞こえるというより、それ以前から呼んでいるのでしょう。聞いたのは発遣の声を聞いた今だが、その声は以前より絶えず呼びかけていたのです。発遣の声を聞く縁が熟して招喚の声は聞くことができるのです。招喚の呼びかけは「汝」です。「汝」と阿弥陀さんから呼びかけられる。これは、阿弥陀さんの目当てはこの私であったとの感得です。この「汝」について親鸞聖人は、必定の菩薩だと言います。必ず仏と成ると定まった者であると。
 本願招喚の声は、このように発遣する声に応じて聞かれ、うなずかれていく内面の声である。だから、発遣の声を聞くことがなかったら、言い換えれば、教えに深くうなずくことがなかったならば、招喚の声を聞くことはないのだと思います。そして、この本願招喚の声に深くうなずいた心を信心というのである。
 発遣・招喚の声を聞いた後、それで終わりかと思うと、第三の声が聞こえてきます。発遣と同じく、東岸から旅人を心配するような声が聞こえてきます。ここも面白いですね。きちんと私たちの歩みを表してくださっているように思います。「汝」と呼びかけれたら、もう何もないかというと、きちんと問いを捨てさせよう、あゆみを止めさせようとすることに遇うのです。それでも、さらにあゆみを続ける。親鸞聖人の歩みを想起すると、法然上人の教えに出遇ってそれで順風満帆に行ったかというと全くそうはなっていないのです。特に親鸞聖人は晩年に我が子善鸞を義絶することになるのですが、その書面にはかなしきかな、かなしきかな、と綴りその苦悩が痛い程に伝わってきます。その悲しみの中できいた声は、「弥陀の本願信ずべし」でした。
 荒野の中にたった一人でいるような孤独なあゆみに、発遣・招喚の声を聞くところに自ずと友が生まれる。私はこのところがとても大事なことだと受け取っております。道を求めるところに師友が与えられ、師友を突き抜けて弥陀の本願に出会う。弥陀に願われている自己と、同じように弥陀に願われ続けている友が見える。白道のあゆみとは弥陀に願われていない者などないのだという確信。煩悩具足の凡夫をこそ救い遂げるぞと立ち上がってくださった仏心を常に感じ、いただいきながら念仏申して生きていく。発遣・招喚・そして群賊悪獣の声をその時その時聞いて思索し続けていく。「二河白道譬」は聞思の仏道を表してくださっているように思います。

 10月24日(木)14時から報恩講が勤まりますので是非お参りください。