3月22日 写教の会を開催しました
今回は「一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華」について学びました。ここは、私たちが本願教えを聞き信じるということは、どういう者となっていくのかを明らかにして下さっているところです。一切善悪凡夫人というのは私たち一人一人ということです。特に凡夫ということで親鸞聖人は「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、」明らかにしていますが、そういう凡夫が、阿弥陀さんの願いを聞き信じる者になる。在家止住の凡夫の身のままに、阿弥陀さんにたすけられて生きて行く者になる。そういう者を釈迦・諸仏は、「広大勝解の者」(非常に優れた人である)と褒め称え、また「分陀利華」(白蓮華・プンダリーカ)と名づけるのだと言っているのがおおまかなところです。その中でも「分陀利華」に着目しました。
蓮華という華について親鸞聖人は維摩経の言葉を引用しております。そこには、「「淤泥華」とは『経』(維摩経)に言わく、「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず。」これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩う。」と説かれてあります。この教説を手掛かりに考えますと、蓮華というのは、泥を場とする華なのです。泥を離れて蓮華はないのです。高原の陸地には華は開かず、卑湿汚泥においてはじめて華が開くのです。なので、卑湿汚泥を自らの命として咲く華ということで。汚泥というのは私たちが備える煩悩のことです。煩悩具足の者を救い遂げる事を誓われたのが阿弥陀仏です。人間は煩悩によって悩み苦しめられるが、その煩悩が阿弥陀の大悲を感じるのです。煩悩具足の身が大悲を感じていくのが聞法生活なのでしょう。山に上がって清らかなところで咲く華(聖道門)ではなく、どこまでも人間の大地を離れずに咲く華(浄土門)なのだと分陀利華は伝えているのです。
次回は4月5日(月)14時~を予定しております。お気軽にご参加ください。