4月5日 写教の会を開催しました

  今回は「弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」について見ました。この2句は「結誡」と呼ばれております。これまで「依経段」の「弥陀章」(本願の起こり、歴史)と「釈迦章」(本願は私たちにどういう世界を開くのか)を見てきましたがそのまとめ、結びのところになります。そこには特に、難信ということが謳われてます。具体的には弥陀の本願念仏を信楽受持せしめないものは、邪見驕慢の心なのだということがあるのです。そこにこの二句がただの結び、これまでのまとめということではなく「誡」という意味があるのです。

今日は邪見驕慢に着目して話をしていきます。皆さんは「この邪見驕慢悪衆生」という一行をみてどのように感じますか?特に何も思われないですかね。そのあたりが一つ問題点としてあるのではないかと思うのです。どういうことかと申しますと、親鸞聖人にしても蓮如上人にしても邪見驕慢の「われら」というように自分自身をそこに見出しておられるのです。ご自身が邪見驕慢の者だと思われますか?という事が問われていると思うのです。では、邪見驕慢の人はどのような人だと思われますか?言葉の感じからすると邪な見解を持って、驕りたかぶっている人で、自分はそこまでではないなと思われるのではないでしょうか。語句の意味を調べてもだいたいそのような事しか出てきません。しかし、金子大栄という真宗学の先輩は邪見驕慢とは「知識と道徳にとらわれている者」とおさえて下さっております。普通の邪見驕慢の語句の意味ならなんとなく悪のイメージが沸くと思います。ですが知識や道徳にとらわれているという事が邪見驕慢だとは思えないでしょうし、それが悪だとは思えないのではないでしょうか。では何故金子先生がそういうような事をいうのかといえば、阿弥陀の本願に立って物事を言っているからなのです。本願に立たなければこんな事は言えません。知識と道徳に立って生きているのが人間ですが、実はそれを頼みに生きているということは本願に立って生きていない。敢えて言えば本願を疑っているわけです。南無阿弥陀仏申して生きていかなくても、自分の知性と理性で生きていけると思っているわけです。そのことをよくよく考えなければならないと、「結誡」は謳っているのではないでしょうか。