8月27日 親鸞聖人御命日の集いを開催しました
今回の『御文』(二帖目第九通)は、偶然にも前回『唯信鈔』を見て行く中で出てきた「忠節の論理」が語られています。余仏余菩薩に仕える暇があるならば、直ちに弥陀一仏に帰依して称名念仏を専ら勤めよということを、二君に仕えない武士の主従道徳を例示して、一向という信仰心のあり方が説かれています。『御文』を通して前回の復習をした後、『唯信鈔』で専修の証文として引用された善導大師の『法事讃』の文を親鸞聖人が『唯信鈔文意』でどのように解釈しているのかを見ました。
特に「信心すなわち仏性なり」という信心仏性について考えました。皆さんと何度も学んでいることですが、親鸞聖人の信心の自覚は、たまわりたる信心ということでした。本来あるものではないし、そもそもないのでもない。自分というものに根拠はないのだけれど、阿弥陀さんからたまわったという自覚になります。救われがたい清らかな心などないものが、不思議にも阿弥陀さんの願いによって成仏するということです。「信心すなわち仏性」であるというのは、涅槃に至る因は阿弥陀さんよりたまわった信心なのだということを親鸞聖人はいなかの人々に伝えようとしていると思われます。
来月は9月23日に秋の彼岸会、再来月は10月24日に名響寺報恩講が厳修されますので御命日の集いはお休みになります。次回は11月27日と間が空いてしまいますが、改めて『唯信鈔文意』の言葉を見ていきたいと思います。