12月27日 親鸞聖人御命日の集いを開催しました
今月の『御文』(二帖目第十一通)で大きな問題として取り上げられている「善知識だのみ」という問題を見ていきました。善知識だのみとは、阿弥陀さんよりも自分の師匠、善知識を本としていく、善知識ばかりを頼んでいくあり方です。そのような善知識だのみに対して蓮如上人は、善知識というのは阿弥陀さんに一心一向に帰依せよと勧めて下さる存在、そういうはたらきを善知識というのだと伝えてくれております。これはいつの時代も問題としてあるのではないかと思います。教えを説き、自らの歩む道を照らしてくれる身近な存在が自分にとって大きくなっていくのは仕方がないことだと思います。例えばほとんどの新興宗教は教え導く存在に帰依することが求められるわけですが、自分にとって大きな存在に帰依するというのはある意味で簡単といいますか、それだけでいいというと語弊があるかも知れませんが、とにかく身近な師に帰依していく。そこで止まってしまうことを問題としているわけです。これは、帰依する者だけでなく、その師、善知識にも問題があるわけです。弥陀に帰依することを勧めるのが本来のはたらきであるのに、それがそうなっていない。立ち止まらせているわけですから。先月、報恩講が本山で1週間かけて勤まりましたが、私たちが親鸞聖人をどのように見ていくのかとも重なりますし、親鸞聖人はどのように御門徒と接していかれたのかということです。親鸞聖人と御門徒の関わりを改めてみますと、親鸞聖人の遺言だと伝えられている言葉があります。『ご臨末の御書』に「一人居て喜ばば二人と思うべし、二人居て喜ばば三人と思うべし、その一人は親鸞なり。」と親鸞聖人はおっしゃったと伝わっております。これは本当は親鸞聖人は言っていないという事もいわれますが、御門徒の中の親鸞聖人ということでしょう。親鸞聖人という方は共に喜んでくださる存在だということです。もう一つみてみますと、一帖目第一通の『御文』には、親鸞聖人は御同朋御同行とかしづく交流をしていたのだと書かれています。上にたつのではなく、共に阿弥陀さんに救われていく存在だということですね。このあたりのことは真宗を学んでいく姿としてとても大切なことだと思います。善知識をどのように仰いでいくのか、偉大な人とみていくのか、御同行とみていくのか。翻って善知識と言われるものは御門徒をどのようにみていくのか。このことが、今日の御文から問われているように思います。
その後、お集まりいただいた皆様と仏具のおみがきをしました。お陰様でとてもきれいになり、修正会を厳修することができます。本当にありがとうございました。
修正会は、1月1日(日)11時からですので、是非ともお参りください。