1月1日 修正会を厳修しました

 

今年2023年は親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年の慶讃法要が本山で勤まります。慶讃法要では「南無阿弥陀仏-人と生まれたことの意味をたずねていこう―」というテーマが掲げられております。最初に「南無阿弥陀仏」、という六字の言葉があります。先月の掲示板には「人は言葉で迷い、言葉で目覚める存在」という事を書きましたが、この六字は人間を迷わせる言葉であろうか、それとも目覚めさせる言葉であろうか。そのような事を少し考えるわけです。

私たちの口から言葉が出る。それを口業といいます。身・口・意の三業という事を仏教ではいいます。身体の行い、言葉の行い、心の行いです。この三業に関わって、十悪業と言う事が教えられておりますが、それは、貪・瞋・痴・悪口・両舌・綺語・妄語・邪淫・偸盗・殺生です。これが十悪業で、これの頭に不を付けると十善業となります。貪欲・瞋恚・愚痴というのは意業、心の問題で、邪淫・偸盗・殺生は身体の問題です。そして、間の4つが言葉の問題なのです。言葉の問題が一番多いというのが面白いといいますか、興味深いところだと思います。簡単に見ていきますと、悪口と書いてあっくと読みますが、これは文字通り悪意を持って人を傷つけて人を悲しませていく。言葉というのは時に人間を殺しうることもあるわけです。次の両舌というのは、人間関係を断ち切っていくような言葉です。次の綺語というのは、言葉の持っている意味がはたらいていない言葉です。最後に妄語というのは嘘のことを言うともいわれますが、人の生きる力、意欲を奪い取るような、なにか生きているのがいやになったという思いを抱かせるような言葉が妄語になります。この妄語に対する言葉が正語ですが、それは単に正しいという事ではなく、生きていく力、勇気というものを呼び覚ますような言葉です。そこには温かい心、響きというものが伝わってくるのです。悪と呼ばれる口業には共通して、言葉を通して他を傷つけていく、迷わせていくということが言えるかと思います。では、南無阿弥陀仏は人を迷わせる言葉なのか、目覚ましめる言葉なのか。そのことをもう一つ別の角度から言葉ということで見てみますと、『勝鬘経』という経典がありまして、その中に勝鬘夫人の御両親が釈尊の説法を聞いて、その感動を手紙に書いて、娘の勝鬘夫人の所へ書き送られた。そうしたら勝鬘夫人はそのお手紙を読んで「我、今仏の御声を聞くに」と言うのです。この場面を聖徳太子は『勝鬘経義疏』で、勝鬘夫人はただ手紙を読んだだけであろう。手紙を読んだだけの夫人がなぜ「仏の御声を聞くに」というのかという所を注意されて、「書は以て声を伝え、声は以て意を伝う。」と言います。書というのは、文字です。文字は声を伝えているのだと。これは、私たちは様々な言葉や物語に触れるのですが、その言葉、文字が声のように響いてくる。本当にその言葉と出会ったという時には声を聞くことなのだと。そして、その声はその文字に込められている心を感じさせるというのです。今この六字の南無阿弥陀仏という言葉も、声となって自分に響いているか。その事が問われるわけです。皆さまどうでしょうか。南無阿弥陀仏が仏の呼び声として響いているでしょうか。声として響いてくれば、その心が伝わってくるのです。その心は、私たちを決して見捨てないという温かい心ですね。南無阿弥陀仏がただの言葉としてある時には、人を迷わせる言葉ともなるかも知れません。しかし、南無阿弥陀仏の文字から、響きを感じ、慈悲の心を感じるならば、それは目覚めさせる言葉となるのではないかと思います。阿弥陀さんの慈悲の中にいるという目覚めですね。今年も南無阿弥陀仏と称える事を通して、阿弥陀さんの御心を感じて生きていきたいと一年の始まりに思うことです。