2月27日 親鸞聖人御命日の集いを開催しました

今日の『御文』二帖目第十三通「御袖」

 この御文では言葉自体は出てきませんが「自信教人信」ということがキーワードになろうかと思います。自信というのは、真宗の教え、弥陀の本願を自ら信じるということです。そして教人信というのは、自らが信じた教えを他者に伝えて信ぜしめるということです。前回の『御文』で出た言葉でいえば「自行化他」ということです。布教伝導ということを真宗では他宗派や新興宗教と比べると、あまり活発に行っていない印象を受けるかと思いますが、その質が違うのですね。他宗派の多くは、自分はわかっている立場に立って、わかっていない立場の人に向かって教えを説き導くというようになっていると思います。今この『御文』で問題として取り上げられているのが、他宗や世間に対して教えをふりまわすことが浄土真宗のためになっていると考えです。真宗の教えでなければ救われないのだから、それ以外の宗教を信じている人や教えを知らない人にそれを伝えることはいいことをしているという意識ですね。これは違いますよと蓮如上人は諫めるわけです。真宗の教えは、導くのは釈迦弥陀の二尊であり、私たちは共に聞いて行く存在であると。自信ということも、教人信ということも、自分のはからいを超えているのだということです。そんなのでは頼りないと思われる人もいるかも知れませんが、共に念仏申すことを大事にしてきた歴史があるのです。そこを中心にこれからも教化ということがなされていくのだと思います。

『唯信鈔』

 今回から『唯信鈔』では聖道浄土、専修雑修と見てきましてこれから信心というとても大事なところに入っていきました。最初の「念仏をもうさんには、三心を具すべし」。これがこれからたずねていくテーマになります。念仏は信心を離れてはありえないということです。その信心を『観無量寿経』に説かれる「三心」と捉えて話が展開していきます。「三心」は『観無量寿経』で釈尊が「散善」を説くところで出てまいります。散善とは、散り乱れる心のままに務め励む善行(廃悪修善)のことです。釈尊は機に応じて往生浄土の為の様々な実践法を説かれます。その散善を説く冒頭で、浄土に生まれたいと願う者が発起しなければならないこころとして、釈尊が説いたのが「三心」なのです。聖覚はここで『観無量寿経』の「三心を具すれば、必ず彼の国に生ず」の文を引用して、ただ口に念仏を称えるのみでは十分ではなく三心を具足しなければならないことの証明としております。『観無量寿経』を深く学ばれた善導大師は「三心」は上品上生にのみ説かれているが、これは浄土に生まれたいと願う者は必ず起こさなければならないと説きます。この三心を具すことの大切さは、善導大師、法然上人、その門下生へと脈々と繋がっていきます。ではその三心の第一に挙げられる至誠心とはいかなる心なのかを語るところを見ていきますと、『唯信鈔』では「真実のこころ」として、内外相応ということが出てきます。こころに思うことと、行動とが矛盾しないことです。しかしながら、人間は内心とは裏腹に外見を装うことが多いですが、これは「不実のこころ」であると聖覚は言い批判します。 では、そのような内外相応の真実のこころをどのように保つのか。ある者はこころを清らかに保つ賢善精進を目指しある者は造悪無碍のように振る舞う者もいた。これらの極端な思想を深く考え直しなさいと聖覚は言います。内外相応を人間のはからいで捉えようとするとどうしても極端なことになってしますのです。『唯信鈔』では善導大師の「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」の文を引用して至誠心のところが終わります。親鸞聖人はこの善導大師の文を『唯信鈔文意』で解釈していきますが、『唯信鈔文意』に戻らずに、このまま聖覚が説く三心を次回もみていきたいと思います。

次回

 3月は春の彼岸会、4月は慶讃法要団体参拝がありますので休会となります。次回の親鸞聖人御命日の集いは5月27日(土)14時~となります。