3月21日 春の彼岸会兼永代経法要を厳修しました

式次第

伽陀「先請弥陀」・『仏説阿弥陀経』・正信偈草四句目下・念仏讃淘三・和讃弥陀成仏のこのかたは飛び三首・回向「願以此功徳」・『御文』五帖目第二通「八万の法蔵」

法話

 いよいよ今月25日から親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年の慶讃法要がつとまります。名響寺では来月25日に団体参拝いたします。昨年から慶讃法要のテーマである「南無阿弥陀仏、人と生まれたことの意味をたずねていこう」という事について生まれたということなどについて彼岸会や盂蘭盆会法要などで考えてきたわけですが、今回は立教開宗800年ということについて考えていきました。
 立教開宗800年ということですが、これは親鸞聖人が主著『顕浄土真実教行証文類』、(一般的には『教行信証』と言われています)を書かれたのが関東に赴いていた50歳頃だとされているからです。本山では『教行信証』のことを立教開宗の書と言っておりますが、その『教行信証』を親鸞聖人がどのような課題・背景・願いをもってお書きになったのかという視点でその「後序」に説かれる法然上人に出遇い『選択本願念仏集』の書写の慶びを語る言葉を見ていくことで、私がこの度、立教開宗800年の慶讃法要を迎える意義を確かめました。
 親鸞聖人は「後序」の初めに「浄土の真宗は証道今盛りなり」と言い切りますが、これは親鸞聖人が法然上人と出遇い、教えを聞き、さらに法然上人が撰述した『選択本願念仏集』に直に触れることを通して、阿弥陀の願いに生きる身になったからです。親鸞聖人は、特別に『選択本願念仏集』を書写と法然上人の真影をえがくことをゆるされ、そのことこそが往生決定の徴なのだと言いますが、これは自分は特別だと自分のことを誇って言っているわけではないのです。このことについて、藤場俊基さんは「『選択集』の授与はその出遇いによって本願念仏が受け継がれたことを表しており、真影の授与は出遇いを通して、自ら仏弟子の名告りをあげたということを表しているのだと思います。」と解釈を示して下さっております。親鸞聖人は、私のところに本願が確かに届きました。阿弥陀さんに願われていた自分に気付いたということが往生決定の徴なのだと慶んでおられるのです。そこには、本願の教えが伝わったということがあるかと思います。そしてそれは、本願の教えを聞く仲間と共にあゆむのだ、あゆんでほしいという志願をうみ、それが『教行信証』を書かせたと言えるのではないでしょうか。なので、『教行信証』が書かれ、それを読む縁にあった者は、その願いをどう自分が受け止めるかよく考えなくてはならないと思います。
 この度の立教開宗800年は、親鸞聖人が『教行信証』という書物を書かれて800年経ったという歳月、時間の長さを慶讃するということではないのでしょう。親鸞聖人が志願の書を書かれて800年経ちましたということですが、それよりも深い本願の歴史に自らが参入していく。それこそ『教行信証』や身近な念仏者を縁に本願を信じ生きていく者となり、仲間を求めて生きていく者となる。それこそ親鸞聖人が無辺の生死海を尽くす存在の誕生を願われたことが、私において結実したことを喜ぶ、あるいは結実する縁となることが願われているのが今度の慶讃法要なのではないかと考えているところです。
 実際に京都に参拝できない方も、YouTubeで配信されますし、参拝した感想なども後程お伝え出来ればと思います。