5月8日 写教の会を開催しました

 前回からいよいよ7高僧の最後になります源空上人すなわち法然上人のところに入っておりまして、法然上人の生い立ちや、法然上人が浄土門、専修念仏の一道に立つきっかけとなった善導大師の言葉を中心に前回は見ました。今日はその続きになります、「還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入」について見ていきました。
 この4句はよく見ますと対になっているところが「還来」「速入」や「家」「楽」や「止」「入」など幾つかありますが、大事なところはやはり、「疑情」と「信心」になるかと思います。そこに入る前に大まかに言葉を窺ってみますと、最初の「還来生死」は正確には往還去来という言葉の意味で生まれ変わり死に変わりして迷い続けているという意味となります。その要因は何かと言えば、修行が足りないとか能力が劣っているとかではなく、本願を疑っているから止まっているのだというのが、前半の2句です。それに対して、速やかに疾く、生まれ変わり死に変わりしている輪廻を断って、阿弥陀の浄土に生まれる要因は、信心なのだということが後半の2句になります。
 この4句の元になっている法然上人の言葉は『選択集』の「三心章」にある言葉です。「三心」とは『観無量寿経』に説かれている「至誠心」「深心」「回向発願心」のことです。その「深心」を解釈されるところで法然上人が説いている言葉が「深心とは、謂く深信の心なり。当に知るべし。生死の家は疑を以て所止と為し、涅槃の城は信を以て能入と為す。」という文です。親鸞聖人はこの言葉を非常に大切になさっていて、『尊号真像銘文』では具体的な解釈をいなかの人々に伝えております。ではその生まれ変わり死に変わりしていく因とされる「疑情」と涅槃に入る因とされる「信心」とは具体的にどういうことかといえば、「疑情」というのは自分の積んだ善根を頼みとするすがたです。自力の心です。自分はこれだけのことをやりましたという善を積んで、それをもっていい所に生まれさせてくださいという人間の根性です。こちらから善を差し向けるということです。それに対して「信心」は他力をたのむこころです。こちら側からは何も差し出すものはない、何の条件もない、ただ念仏して弥陀にたすけらる身というところに落ちなさいということです。それこそが、平等の救いなのだということを法然上人はこの一文に説かれており、親鸞聖人はその一文をもって印度・中国・日本の三国七高僧の讃嘆の締めの言葉としてここで謳っておられるということが非常に意味深いものがあると感じます。