5月27日 親鸞聖人ご命日の集いを開催しました

今日の『御文』(二帖目第十四通「秘事法門」)

 この『御文』では秘事法門という事が大きな問題として取り上げられております。越前の国は今でいう、福井と岐阜の辺りを言いますが、その辺りで秘事法門が流行っていたということです。秘事法門とはどのようなことを秘事として言っているかというと、例えば、不拝秘事は、「信心を得てからは、このわが身がもはや色も形もない無上仏になったので、絵像や木像は拝む必要はない。」という教えで、善知識だのみ(知識帰命)は「特定の人物を善知識と仰ぎ、善知識が現実に現れた如来であり、如来は具体的に善知識に代表されるとして、善知識をたのみ、善知識から信心が与えられるとする。」ものです。そして、一益法門は浄土真宗における利益は、現生において正定聚の位に入る益と当来における滅度の益との二益であるにもかかわらず、信の一念に正定聚の位につくのと同時に滅度の果を得るとする理解です。それらの秘事法門は現生、この身のままで覚りを開き仏になるということが言われてきます。
 『歎異抄』第十五条には「煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつてのほかのことに候ふ。」という批判があります。「私はすでにさとりをひらいた。」ということと、親鸞聖人が信心定まった時に正定聚という必ず仏になる身と定まるということの違いをどのように頷いていくかという問題があるかと思います。これは、信心を得る、真宗では度々信心を阿弥陀さんよりたまわるというように言いますが、信心を得たということは、「私はすでにさとりをひらきました。」「もう救われました」ということを言い切らせないところに真宗の信心の特徴があろうかと思います。つまり、信心を賜ったということは過去の経験ということではないのです。何かしらの通過儀礼をしたらもう大丈夫などというものではないのです。煩悩を断ち切れないという身の事実を外れないのです。煩悩を断ち切れない、その悲しい者を救おうと立ち上がったのが阿弥陀さんであり、その阿弥陀さんの誓い本願を信じる心を賜っていくところに阿弥陀さんを感じて生きていく。これが真宗門徒の姿であろうかと思います。

『唯信鈔』

 聖覚は、「三心を具すれば、必ず彼の国に生ず」の文を引用して、ただ口業に念仏を称えるのみでは十分ではなく、三心を具足しなければならないことを証明していきます。この三心を具すことの大切さは、善導大師、法然上人、その門下生へと脈々と繋がっていきます。そしてその三心の第一は前回みた至誠心です。いつわりでない、真実の心ということでした。
 今日は第二の「深心」のところです。深い心とは深く信じる心だと善導大師は言っておりますが、聖覚は「ふかく人のことばをたのみてうたがわざるなり」と言って話が展開していきます。先ず「この信心につきてふたつあり。」と言っていわゆる「機の深信」と「法の深信」の二種深信が語られます。二種深信こそが『唯信鈔』の説く信心の内面であると仰っている先生もある程に大切なことですが、聖覚は「機の深信」の自身の愚かさに気が付いた方の思いに寄り添いながら筆を進めます。いくら本願が建てられたからといって、自分のように罪深い人間がどうして救われるのであろうか?と真剣に悩む人に対して、それは謙虚で素直な心持ちではあるけれども、実は阿弥陀さんを信じていない、侮っている心でもあるのですよと語っていきます。聖覚が深心のところで明らかにしたいところも実はここにあり、自分のような愚かな身がはたして救われるのかという思いに応じて、その疑念を晴らすべく弥陀の本願の確かなこと、法然上人が説いたただ念仏の教えを唱導することにあります。その為に以前に引用した『五会法事讃』の文を引用しながら、本願の平等の救いを説きます。
 そして、本願を信じるということを「つなの譬え」で表現していかれます。
 「たとえば人ありて、たかききしのしもにありて、のぼることあたわざらんに、ちからつよき人きしのうえにありて、つなをおろして、このつなにとりつかせて、われきしのうえにひきのぼせんといわんに、ひく人のちからをうたがい、つなのよわからんことをあやぶみて、てをおさめてこれをとらずは、さらにきしのうえにのぼること、うべからず。ひとえにそのことばにしたごうて、たなごころをのべて、これをとらんには、すなわちのぼることをうべし。」
 最後にこのまとめとして、綱に手を伸ばすことを躊躇う、つまり本願を疑うことの罪を説き、本願を信じる心、つまり深心こそが要なのですよと説いていかれます。

次回

 6月27日(火)14時~勤行・法話
         15時~仏具のおみがき
 半年に一度の仏具のおみがきをおこないますので、是非お参りいただき一緒におみがきをしましょう!