6月27日 親鸞聖人御命日の集いを開催しました

今日の『御文』二帖目第十五通「九品長楽寺」

 この『御文』では、法然門下が様々な義を立て分かれていったというところから、始まります。例えば有名な知恩院は鎮西義と言って、念仏も諸行も大事だというようになっていきます。それがずっと今まで伝わっております。この前京都に団体参拝した時に、数名で知恩院にお参りしたのですが、その際にたまたま法要が執り行われていました。その儀式を見ると、やはりというか全く真宗とは違います。僧侶が功徳を回向するというのが感覚として伝わってきて不思議な気持ちになったことでした。法然門下では、様々な義が立てられたということですが、真宗ではそれが異安心ということで表に出てきます。それは、法然門下は皆さん学があったのです。頭が良く知識もあったのです。だから「義」ということでわかれる。親鸞聖人のお弟子さんは武士の方が多かったと言われておりますし、支えているのも農民などですので、義ということを立てて分かれていくということはなかったのではないかと思います。ですが、安心が異なるという形で、親鸞聖人の教えと離れていくという法然門下とは違うかたちで、教えが異なっていったように思います。それは、ちょうど前回見た秘事法門のようなことで、正定聚の教えをこの身このままで成仏するというように勝手に解釈していくというようになります。そこで、蓮如上人は、親鸞聖人の信心、安心ということを確かめるため、法然門下が分かれたことを外からとやかく言うのではなく、自身の信心をきちんと見つめなさいと言っているのがこの御文です。我が身という問題とその愚かな身を救うはたらきです。これは、蓮如上人が何度も何度も御門徒に伝えていることです。安心、信心の確かめです。
 少し話が飛ぶようですが、最近本派西本願寺の方で、この度の慶讃法要を縁に出された新たな領解文というものが大きな問題となっているようです。領解文、大谷派では改悔文と呼びますがこれは蓮如上人ご自身の信心を語っているもので、非常に大切な文なのですが、これを現代の人にもわかりやすくするために本派のご門主が作ったということです。自分もよく知らなかったのですが、実際に読んでみるとちらほら怪しい箇所が確かに出てまいります。少し調べたところによると、問題となっているのが「私の煩悩と仏のさとりは 本来ひとつゆえ」自分の煩悩と阿弥陀さんのこころが本来一つと言えるのかということが一つ言われます。これもよくよく考えなければならない言葉だと思います。本来ひとつといえるか。どうでしょうか。そして他にも、教えを依りどころとしてから以下のところです。とらわれの心を離れるであるとか、むさぼりいかりに流されず穏やかな顔であるとかいう表現がなされます。これに対して、そうならない自分に気付くのが教えであるとか、離れられない悲しみが人間の悲しみであり、教えを聞いていく大事な点だという指摘がなされています。これに関しては、なんでこのような信心の告白になったのかと不思議な感じがしました。そこで私が感じたことをお伝えしますと、教えを聞き信じる。聞信ということを、真宗では非常に大切にするわけですけれども、私たちの聞く姿勢が、ここに書かれているような心の状態の変化を求めるのでは話が違ってくるかと思います。ですが、教えを聞いてよくなる。普通はそのように思って、それこそとらわれの心を離れ、穏やかにということを念頭におくのではないでしょうか。しかし、聞法とはそうではなく、南無阿弥陀仏が私に与えられているということを通して、この命を生き尽くす、そういうことを賜ることではないでしょうか。

仏具のおみがき

 『御文』についてたずねた後、半年に一度行っている仏具のおみがきを皆さんと一緒にしました。おかげさまでとても綺麗になり、来月の盂蘭盆会法要をむかえられます。本当にありがとうございました。