7月27日 親鸞聖人御命日の集いを開催しました

今日の『御文』三帖目第一通「摂取と光明」
この『御文』では、主に光明と摂取という阿弥陀さんのはたらきについて説かれていますが、その光明と摂取のはたらきは念仏者のみにはたらくのかという問題が言われることがあります。親鸞聖人の時には、阿弥陀さんの光が念仏者のみを照らしその他の行者は照らしていない摂取不捨曼荼羅図というものがあったようで、念仏停止の一因にもなっています。そして蓮如上人の時には、蓮如上人と同じ時代を生きた一休宗純が阿弥陀さんの慈悲に疑問を投げかける和歌を詠まれます。
「阿弥陀には まことの慈悲は なかりけり たのむ衆生を のみぞたすくる」(阿弥陀如来は念仏をして助けを求める衆生は助けるが、たのまない衆生は助けないので誠の慈悲はない。)蓮如上人は、この和歌に答えて、「阿弥陀には へだつる心 なけれども 蓋ある水に 月は宿らじ」(阿弥陀如来の光明は月の光のようにどの水にも隔てる心なく月かげを宿すけれども、蓋(ふた)のしてある水に月は宿らない)と歌い、月に誠の慈悲がなくて差別しているわけではなく、茶碗や桶に蓋があり助けをたのんでいないのに、どうして助けることができるであろうか。つまり、問題は月の光にあるのではなく自分の心にあるのではないでしょうかといいます。
大事なところは、私に阿弥陀さんの光明、摂取のはたらきが届いているかということです。他人事ではなく、法蔵菩薩が一切衆生を救うために建てられた願い、念仏申す者を必ず救い遂げるという願いは、私一人のためであると聞き取れるか。名のみばかりの門徒ではなく、阿弥陀さんが何故本願を建てられたのかを聞法し思索して南無阿弥陀仏と念仏申す者になってほしいと蓮如上人はこのお手紙で言っているように感じます。
『唯信鈔文意』
前回までは『唯信鈔』で「三心(さんじん)」、つまり至誠心・深心・回向発願心ということを聖覚が語るところを見ました。『唯信鈔文意』で取り上げていくのは、三心についての考察の根拠となった「具三心者 必生彼国」という文と聖覚がその文を考察する中で引用した善導大師の『往生礼讃』の「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」という文です。親鸞聖人は特に「若少一心」の言葉に注目しておられます。そこを見ますと、『唯信鈔』と同じように浄土に生まれるには「みつの心(至誠心・深心・回向発願心)」が必要で、1つでも欠ければ「浄土」へ生まれることはできないと言っています。問題はその後です。「信心欠くというは、本願真実の三信の欠くるなり」と言って、『観無量寿経』の三心ではなく、『大無量寿経』の三信(至心・信楽・欲生)ということが急に出てきます。これは親鸞聖人にとって信心が欠けては浄土に生まれないと言った時には、それは真実教の『大無量寿経』の説く信心という事に、親鸞聖人の中では自然とそうなるわけです。そして、1つの心でも欠けては駄目という意味の「一心」も、真実信心の「一心」と解釈していかれます。これは、普通は戸惑うところかと思います。そして、その後も難しいのですが親鸞聖人は、「『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうる」と言います。これは、『観経』は方便の経であり、そこに説かれる三心は、親鸞聖人の視点で見れば自力の信心であり、その自力の信心を翻し、『大経』の説く真実信心、つまり一心を得ることの大切さを語っているのではないかと思います。このすぐ後の「即不得生」のところで、はっきりと「『観経』の三心は定散二機の心なり。」示しています。『観経』で説かれる三心では、真実の報土には生まれることができない。だからこそ、他力の信心、一心を得て往生するよういなかの人々に伝えるために、親鸞聖人は『唯信鈔』では語られていない『大経』の三信心をここで出して解釈しておられます。真実報土と真実信心。方便化土と自力の信心。自力の信心を得て辺地に宿をとるのか、それとも自力の心を翻して、他力の信心を得て真実の報土に往生するのか。ここをはっきりさせないといけませんということです。
次に至誠心を説くところで聖覚が引用した「不得外現の文」について、親鸞聖人がどのように解釈しているのかを見ますと、聖覚は『唯信鈔』で至誠心、つまり真実の心を深く考えさせる文として内に虚仮を懐くことがないようにという事を表す文として引用したのに対して、親鸞聖人は、180度ひっくり返した読みをして、われらの身の事実は、「まことなるこころなき身」なのだという文、それをよくよく考えさせられる文として、至誠心ではなく、むしろその後に説かれている深心の機の深信の自覚に通じるような文として見ておられます。このような自覚は、やはり教えに出遇ってはじめて自覚されるものかと思います。ことに真宗の学びは「愚」という地平に立てるかどうかかが大事です。愚かという所に立つということは、阿弥陀さんのはたらきに支えられて立つということです。その意味で、賢人善人のすがたを現そうとすることは、それこそ虚仮と言わざるを得ない。そのような感覚であろうかと思います。そして、最後に、「不簡破戒罪根深」の文ですが、ここに書いてあります通り、お逮夜でも見た言葉になります。愚かな者でも拯うという言葉です。この言葉も、自分が善人という所に立っていれば、何でもない言葉ですが、愚という所に立った者にとってはどれほど頼もしい言葉であるか。先の「不得外現の文」にしても、親鸞聖人の愚の自覚があってはじめてそう読めるのでしょう。
来月のおたいやでは、また『唯信鈔』に戻って文章を見ていきたいと思います