9月23日 秋の彼岸会法要を厳修しました

 今年は関東大震災が起こって100年という年に当たるということを受け、メディアでも多くの特集が組まれておりました。関東大震災では、約10万人の方が亡くなったそうです。100年前を元号でいえば大正12年になります。私の祖母は大正14年の生まれなので、震災から2年後に産まれたわけです。祖母は東京の生まれなので、もし祖母の両親が震災で亡くなっていたら、今の自分というものはなかったのだろうなと、不思議と考えてしまいました。そして、今回の特集で特に取り上げられていたのが、震災直後に朝鮮人や行商人が、デマによって沢山殺害されたということでした。震災というパニック、受け入れ難い現実の置かれたなかで、朝鮮人が悪行をしている。それを懲らしめるのは当然で正義だということが、自分を立てていく手段になったのであろうと思います。そのような流れの中でも、警察署に朝鮮人を匿った方もおられたそうですが、自分にとって不都合なことに出会った時に、その事実とどのように向き合っていくかといったところに、教えというものがあるのではないかと考えさせられたことです。

 今、私がある、生きていることの不思議をふと感じたわけですが、「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」というテーマが先の750回御遠忌の時に立てられました。もう10年以上前に立てられたテーマですが、今日はその「よろこび」ということを、皆さんと考えていきたいと思います。よろこび、という字は、御遠忌のテーマでは「喜」という字が使われておりますが、他にも「歓」や「慶」や「欣」などでもよろこびと読みます。またそれらを合わせて「歓喜」という熟語で経典にも出てきます。例えば『大無量寿経』の第18願成就文には「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。」とあります。また、親鸞聖人は特に「慶喜」という言葉をよくお使いになっておられます。身近なところで言えば正信偈で「信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん」と謳っておられます。

 例に出した正信偈の言葉を親鸞聖人は『尊号真像銘文』で「大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。」と押さえてくださっております。独特の表現ですが、『唯信鈔文意』では「慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。」とあります。二つの「慶」の字の解釈を通してみますと、うべきことは信心であるということがわかりますが、普通に生きておりますと、自分が生まれきて「うべきこと」が何かがはっきりしないということがあるかと思います。それこそ、うべきことが「信心」であるとここに説かれていても、なかなか自分のこととしてはっきりとしない、自分が生まれてきて、うべきことは果たして信心なのだろうかという感覚です。最初に一緒に読みました三帰依文に、受け難くして人の身を既に受けていた、聞き難い仏法を既に聞いていたという表白がありますが、それを感動の言葉として読めるかということです。

 人と生まれた、今を生きているこのいのちというのは、本当にあっという間に過ぎていきます。今日拝読した『御文』には「それ、秋もさり春もさりて、年月を送ること、昨日も過ぎ今日も過ぐ。いつの間にかは年老の積もるらんとも覚えずしらざりき」と年月を送るなかで昨日も過ぎて今日という一日も過ぎ去っていく。ふと考えると、知らない間にもうこんな年齢になっていた。「さりとも」、そうではあるけれど、そうではあるけれどもその間には「あるいは、花鳥風月の遊びにも交わりつらん、また、歓楽苦痛の悲喜にもあいはんべり」と、優雅で楽しい交流があり、好きなチームが優勝したとか、何かを成し遂げたという歓楽や、耐え難い苦しみに涙することも痛い目にあうことも色々な経験があったのだと。あったのだけれど、「今にそれ、とも思い出だすこととては、ひとつもなし」と、生まれてきてよかったと頷けるような大事なことがひとつもないのだと。今にそれとは、とありますがそれは人生を深く考えた時でしょう。特に死というものに直面したときだと思います。その時に人間は深く自身の生ということを考えます。この辺りはとても心を掴みますね。ただ考えてみればみるほど、それこそ「ただいたずらに明かし、いたずらにくらして、老いの白髪となりはてぬる身の有り様こそかなしけれ」という思いのほかない。そういう現実に立たされる。その後は、阿弥陀さんの願いがそのような身に響くということが『御文』では述べられていきますが、そこは割愛します。とにかく、人間は皆生まれながらに生きる喜びを見つけようとしているのではないかと思います。それこそ一生懸命に。けれども、それがわからないで一生涯が過ぎていってしまう。しかしその喜びというものは既にあなたに与えられておるのだと。ずっと呼びかけられているのが南無阿弥陀仏なのですね。御遠忌のテーマにも、この度の慶讃法要のテーマにも掲げられていく「南無阿弥陀仏」なのだよと、呼びかけられているのですね。うべきことを得て後に慶ぶというのは、うべきことは、既に与えられていた。そこに気付いて慶ぶということですね。よく親への感謝で、いなくなってはじめてわかるということがいわれますが、既にあったものに気が付いたありがとうという感謝ですね。それは躍り上がるような感じの喜びではないような気がします。嚙み締めるような慶びであろうかと思います。南無阿弥陀仏という名号が与えられていたことに気が付いた慶びです。

 最後にその気付きということを、『観無量寿経』に説かれる「下品下生」に見ていきたいと思います。『下品下生』には「臨終の悪人」の姿が語られますが、その臨終の悪人というのは、もう間に合わないという姿ですね。余裕がない。こちらから励むということができないという時です。その時に、友の声を聞くのです。「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」という声を。それに分かりましたと南無阿弥陀仏と称えるのが、信心ですね。応答したのです。友の呼びかけとして、気付くのです。上から言われるのではなく、友という同じ地平からの呼びかけです。敢えていえば「共に念仏を称えよう」との呼びかけだと思います。生と死と真剣に向き合った時に、自分の命とは何かと問う時に、ただ虚しいだけではなく、ただ無量寿仏の名を称えよという声をきき、分かりましたと念仏申す。そこに慶びというものがあるのだと。それは、阿弥陀さんというはたらきを身に感じるということです。花鳥風月の遊びや、人間の苦楽の味わいも人生ですが、南無阿弥陀仏と称えるところに阿弥陀さんと生きていく人生にこそ、慶びはあるのだと教えてくださっているのだと思います。

 来月24日(火)14時~報恩講が勤まりますので、是非ともお参りください。「共に念仏申しましょう」。