親鸞聖人御命日の集いを開催しました

 今回の『唯信鈔』では、今まで見てきました問答の最後になる四つ目を見ました。そこには当時の念仏者の間で最も問題となっていたともいえる「一念義」とも呼ばれる人々に対する聖覚の見解が説かれています。聖覚は、ただ一念(一声)さえ念仏を称えれば良いのだとして、何度も念仏申す者を非難する態度を「魔戒たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり」と厳しく戒めつつも、一声では少ないと思って念仏を何度も何度も申さなければ救われないという考えでは不信心と言わなければならないと説きます。
 『唯信鈔』では、念仏を何度も申すことに、功徳を積むという表現がなされており、親鸞聖人の解釈とは異なりを見せるが、与えられた生命の中での一声一声の念仏の大切さを説き、それが自然と何度も念仏申す姿となるのだと教えてくださっています。そして、問答がおわった聖覚は、共に救われていく仏道にたち、共に念仏申すことを願うのです。
 長い時間をかけて読み進めてきました、『唯信鈔』・『唯信鈔文意』を読み終えましたので、次回からは今日のところで課題となっていた「一念と多念の争い」にスポットをあてた隆寛律師の『一念多念分別事』とそこに引用される漢文を親鸞聖人が解釈した『一念多念文意』とを、これまでと同じような形で読み進めていきたいと思っております。お念仏は一声でいいのか、多く称えなければいけないのかという問題について、ご一緒に考えていきましょう。