今回は第五観、「宝池観」と呼ばれる八功徳水の想について見ました。八功徳水の八功徳について『称讃浄土経』や『観経疏』に具体的に説かれるところを確認したり、水のせせらぎの音が仏法の響きとして奏で、鳥の鳴き声が帰依三宝を褒め讃えているという表現がなされているところに着目しました。
 次回は10月6日(月)14時からの開催となります。第2月曜日ではございませんのでご注意ください。…

 今回は後序の最後に記述されている、所謂「流罪文」について学びました。『歎異抄』の最後に「流罪文」が置かれた理由とは何かを、武田先生の視座を参考に、「自力のはからい」という『歎異抄』で語られる異義の根本課題がこの「流罪文」からも教えられるのだと確かめました。
 今回で約2年間輪読してきた『なぜ?からはじまる歎異抄』を読み終えました。この書の学びを糧に、来月からは新たに三明智彰著『歎異抄講義 上巻』を皆さまと輪読していきたいと思います。…

 今回は「後序」で語られる、親鸞聖人の二つのつねのおおせについて見ました。おおせの一つ目は阿弥陀仏の本願は救われるはずのない私親鸞一人を救けるために建ててくださったのだと言う感銘が語られ、二つ目は自身は善悪の二つを存知しないと言い切り、煩悩の身、火宅無常の世を生きる者にとって、まことは念仏のみなのだという表白が述べられています。この二つのおおせは、「念仏のみぞまこと」と言われるように、真実によって二つのおおせは貫かれているのだと確かめました。
 次回、9月3日(水)の開催で「後序」の最後に置かれている流罪記録を見て本を読み終える予定です。…

8月6日(水)14時~ 『歎異抄』輪読会
 武田定光著『なぜ?からはじまる歎異抄』の後序について見ていきます。…

 今回の『御文』四帖目第五通で語られる宿善無宿善の「宿」の字に着目し、宿ということが問題になることに、教えに自己とは何かを学ぶという姿があるのではないかということを確かめた。
 その後の『一念多念文意』では、第十八願成就文、第十一願文についての親鸞聖人の解釈を見て、「願生」と「得生」の位の違いに、時間がかからない、本来は清浄国土に生まれた者の「正定聚」という位に、この娑婆世界を生きる者がつくという不可思議を学びました。なかなか了解が難しいところですので、再度確かめていきたいと思います。…

 今回は、前回見た第四観「樹想観」の続きを読みました。整然と並んだ木々、木の実の美しさなどが見事に表現されておりました。
 次回開催日は8月18日(月)14時~となりますのでご注意ください。…

 今年度の盂蘭盆会法要では、地獄を日本仏教でどのように捉えられていたのかを源信僧都の『往生要集』を参考に見た後、その地獄から救われるとはどのようなことなのかを、『涅槃経』に説かれる阿闍世王の救いを要点を辿りながら学びました。…

 今回から「後序」に入りました。その始めに「信心一異の諍論」と呼ばれる親鸞聖人が法然上人の元におられた時の信心をめぐる議論が展開される場面が説かれます。これまで異義篇にて真実信心の異なりを具体的に見てきたが、異なる信心の対比としてただ一つの信心を伝えるために唯円は若き親鸞聖人の諍論を提示しておられるのだと思います。親鸞聖人の信心と法然上人の信心とが一つであるか否かが論点になっているが、特に勢観房という法然上人の昵近の弟子が一つであるはずがないと言い切ることに着目して話し合いました。
 次回は8月6日14時から「後序」の続きを読んでいきますので、お気軽にご参加ください。…

 今月の『御文』は「三首詠歌」と呼ばれるもので、蓮如上人が年齢を重ねた自身の有り様を通して、本願に出遇えた喜びを歌でもって私たちに伝えてくださっています。歌が仏事をなすことは親鸞聖人のご和讃で私たちは承知しているが、明治大正期に活躍された句仏上人や暁烏敏や高浜虚子らの歌を何首か取り上げながら真宗の感覚を味わいました。
 その後は来月13日の盂蘭盆会法要に向けて、お集まりいただいた皆で仏具のおみがきを行いました。回数を重ねてきたせいか、皆さまの技術が上達し、早くかつ綺麗に磨いてくださいました。お力添えありがとうございました。是非盂蘭盆会法要にお参りくださいませ。
 また、次回の御命日の集いは通常通りの流れで7月27日14時から開催いたしますので、あわせてご参加ください。…

 今回は第十八条について見ました。第十八条では、施入物の違いで大きな仏になったり小さな仏になったりするという異義が取り上げられております。唯円は第十八条の中でも往生の要は信心であると伝えてくださっている。第十八条を通して参加してくださった方々と寺院と門徒の間にある「お布施」について語り合いました。
 次回は7月2日14時からとなります。お気軽にご参加ください。…