12月15日 写教の会を開催しました
今回は「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」の特に「称」に注目して見ていきました。
この「称」という字について親鸞聖人は「称は、はかりというこころなり。はかりというは、もののほどをさだむることなり。名号を称すること、とこえ、ひとこえ、きくひと、うたがうこころ、一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり。」と解釈されます。この称という字は称えるという阿弥陀さんの願いを讃嘆するという意味もありますが、秤という意味もあるのです。阿弥陀さんの念仏申す者は必ず阿弥陀の浄土に生まれさせよう、つまり私に念仏申す身になってほしいという願いが片方。その願いに応えて念仏申す身になった自身がもう片方。その二つがぴったり同じになったということを「称」の字は表しているのだと。しかし、ここに「うたがうこころ一念もなければ」とあります。南無阿弥陀仏と念仏申す私に疑いの心があればピタッと同じにならないのです。では疑いの心がありピタッと同じにならなければどうなるかというのが、方便化土、辺地に生まれるのです。実はここが真宗、親鸞聖人の教えの大事なところなのです。南無阿弥陀仏と念仏申す縁に会いながら、他力をたのむこころが欠けているのではないか。この事を問い、確かめていくあゆみが真宗の学びなのです。
そして、「とこえ、ひとこえ、きくひと」とあります。普通はとこえひとこえ称える人だと言うと思います。しかし親鸞聖人は敢えて聞く人と仰るのです。それは念仏申す事においていよいよ念仏申せという声が聞こえてくることを言うのでしょう。称える声と聞こえる声というと別なようですが、私の口から念仏の声が出てきたところに、おおきなはたらきがあるのだということです。
少し難しいことを申しましたが、この一句の大事な確かめは、大悲弘誓の御恩を受け止めた姿が、南無阿弥陀仏と念仏申す姿なのだということです。
次回は2022年1月17日(月)14時~の開催を予定しております。少しでもご興味がございましたらお気軽にお問い合わせください。