4月18日 写教の会を開催しました
今回は「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」について見ました。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏と称えそのはたらきを賜る者は、必ず大会衆の数に入るのだと讃えておられます。「大会」というのは、阿弥陀さんの会座のことを指します。阿弥陀さんの教えを聞く場に身を置くということです。では大会衆の数に入るとはどういうことなのかと申しますと、それは師と友を賜るということです。我も人も共に南無阿弥陀仏と称え阿弥陀さんにたすけられていく身なのだと頷いていくあゆみを共にする者を賜るのです。
宮城先生は「必獲入大会衆数」について、
大会衆というのは、けっしてただ単に念仏申す者たちだけのグループの中に入る、そういう意味ではないのです。いうならばすべての 人々が念仏者として見えてくるということです。いますでに念仏申している人、いまだ念仏の縁なき人、いろいろでありますが、すべてが念仏の内なる人として見えてくる。それが念仏申す心です。念仏申す人は、人々を念仏申す人として見いだす。そういう意味がこの「必獲入大会衆数」ということばに込められているように思います。たとえば同朋会ということを申しますが、同朋会というのも念仏の縁に会った者が集まって同朋になるのではありません。そうではなくて、私が念仏の同朋であったということを知らされていく場が同朋会なのです。集まってグループになって同朋になるのではない。念仏申す一人にされた。念仏の歴史を生きる身とされた。私が念仏の同朋であったことを知らされる、そういう意味がここに押さえられているのだと思います。 (『正信念仏偈講義第三巻』266頁)
と、「大会衆」とは真宗の教え、念仏に縁のあった者たちの集まりを、単なる念仏申す集まりではないのだと言います。そうではなくて、阿弥陀さんの教えを聞く場に身を置くことは、念仏せよと呼びかけ続けて下さった自身と、同じく呼びかけられている友、呼びかけに気付いた先輩に会う事なのだと。人間は枠を作って物事を考えますが、南無阿弥陀仏には枠などというものはないのです。人間のはからいを超えて、私にも隣の方にもかけられている阿弥陀さんの呼び声願いを共に聞いていくということをたずねました。
次回は5月16日(月)14時~開催予定でおりますので、お時間ございましたらお気軽にご参加ください。