7月13日 名響寺盂蘭盆会法要を厳修しました

今年度の盂蘭盆会法要では、親鸞聖人が仏弟子の在り方を「無戒」ということで表したことについて考えました。

親鸞聖人は、果たして自分は「戒」をたもって生きていけるのであろうか、という問いに立って「持戒」の仏道を問い返していったのです。その問い返しの起点となったのが「末法の時代」を自分は生きているということだと思われます。親鸞聖人はたくさんの和讃を残されておりますが、その中に『正像末和讃』という特に末法に生きる自分というところに立って謳われた和讃があります。その最初に謳われているのが「釈迦如来かくれましまして、二千余年になりたまう、正像の二時は終わりにき、如来の遺弟悲泣せよ」という和讃です。ここには釈尊、お釈迦様のおられない時を生きる仏弟子の心情が謳われています。その悲しみに親鸞聖人は立たれたわけです。釈尊を失って行証のない仏教に虚しさ悲しさを覚えられたのです。しかし、悲しまれたのは末法を生きる親鸞聖人だけではなかったのです。実は一番悲しまれたのはお釈迦様なのです。私のいない世界で、煩悩の炎に焼かれる苦痛にさらされる者を悲しみ哀れむ心を持たれたのがお釈迦様です。そのお釈迦様が苦痛に沈む者たちのために残されたのが本願念仏の教えを説いた『大無量寿経』なのです。末法とは教えのみあって、それを行ずることができる者も、それを証し目覚めることができる者もいない時代です。その時代を生きる者の悲しみ、その衆生を悲しむお釈迦様の心。この二つの心が解け合うのが南無阿弥陀仏の世界といってもいいかと思います。

教のみあって行証の無い末法を生きる者が、何を持って仏弟子であると言えるのでしょうか。親鸞聖人が「化身土巻」に引用する天台宗の開祖最澄の著『末法灯明記』は初めに正法・像法・末法の時代区分や時代時代の在り方などを述べた後、末法の時代を「戒・定・慧はあることがないのである。」と結論付けます。この意味は大きく、末法に至っては、戒は仏弟子と言える根拠にはならないとお釈迦様から言われていることになります。そして、その後末法の世には「無戒名字の比丘」を世の宝とするということが言われるのです。戒をたもつものではなく、ただ「釋」の字を賜わり、名のって生きていく者を宝とするということは「釋」と名のる者が上に立っていくのではなく、横に共にという繋がりを大切にしていく存在となっていくことが真の宝であると釈尊は言われているのではないかと思います。もちろん個人の自覚としては愚かな身という事にあるのですが、釈尊は宝だと仰って下さっているのです。親鸞聖人は「愚禿釋親鸞」と名のった仏弟子でした。そこに「無戒名字の比丘」という意が表れているのだと思います。真宗は戒名ではなく法名です。そこにもまた「無戒名字の比丘」という意があらわれているのです。

最後になりますが、今日のところで、注意しなければならないことが2点あるかと思います。その一つは「無戒」というのは、自己弁護では決してないということです。末法に生き戒を保てない自身に悲しみもない痛みもないという事になれば、それこそ無戒が無仏法になってしまうでしょう。そうではなくて、無戒というのは、無戒の者をこそ救うという阿弥陀さんに出遇うということを真の意味としているのです。そしてもう1点は、親鸞聖人は、末法だから仕方なく「無戒」という仏弟子の在り方を言っているのではないのだということです。親鸞聖人からすれば、末法の時代になっていよいよお釈迦様が本当に説きたかった教えが明らかになったのだと。こういう感覚です。在世・正法・像法・末法、そして法滅の時代を貫いて人々を救う教えは阿弥陀の本願であるという頷きです。それが、末法になって明らかになったのだと。仏教というのは、戒をたもつことによって上へ上へ、清らかに清らかになっていく教えではなかったのです。面積が狭まっていくのではなくて、阿弥陀さんからの念仏せよという呼び声が地平に広がっていくのが仏教の教えだったことに気付かれたのです。仏弟子となり、「釋」の字を賜ったということは、その事に気付き、地平の共を見つけていく。ばらばらで一緒という眼を頂いていく。「無戒名字の比丘」として、阿弥陀さんにたすけられて生きていくのです。

天候不順の中お参りいただきまして誠にありがとうございました。