今年度は、「教えを聞き続ける場や機会が永代にわたって相続されていくようにと願われている」永代経を機縁に、念仏相続について、念仏が伝わってきて伝わっていくことについて皆さんと訪ねました。
 具体的には、たまたま教えに出会った者が、そこに感動と疑問を持ちながら、命のある限り考え続けていくことと、南無阿弥陀仏そのものが生きてはたらく仏であり、私も隣の人も南無阿弥陀仏に教化されていくことを確かめました。また、それは私の口からこぼれる念仏であり、その念仏は讃嘆の念仏でもため息まじりの念仏でも同じように、声を聞いたものに伝わっていくのでしょう。…

 今回から定善の観察が説かれてきますが、その第一の観である「日想観」について見ました。西方に沈む夕日を集中し正座をして観じていくことを通して心に浄土を想うことであると確かめました。
 次回は4月7日(月)14時からの開催となります。第二月曜日ではありませんのでご注意くださいませ。…

 今回は第十五条「さとりと信心の関係」を輪読いたしました。第十五条では、煩悩具足の身でありながらすでにさとりを得たというように主張する異義について説かれています。唯円は真言、法華の教義を提示しつつ、それらの道を懸命に歩む者であっても、この世で清らかな仏に成ることは不可能であるという。対して親鸞聖人の教えは「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」ということであり、今生に信心をたまわり、阿弥陀の浄土に往生してさとりを開くのだと説いている。…

 前回は復習という形で何故『一念多念文意』が著されることになったのか、一念義多念義のそれぞれの主張等を確かめました。今回から実際に『一念多念文意』の文章に学んでいきますが、東本願寺出版から聞法テキストとして『一念多念文意』が出ておりますのでこちらを見ながら読み進めていきます。
 最初の「一念をひがごとと思うまじき事」という見出しに続いて、「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」という善導大師の漢文が出てきます。隆寛律師がこの文を引用した意図は、無常というところに立って一念一念に忘れず怠らずに恒に願えという「恒願」に主眼が置かれているのであろうと思います。この「恒願」について『一念多念文意』で親鸞聖人は「恒」と「常」の違いを明示して、「恒」には「おりにしたごうて、ときどきもねがえというなり」と解釈し、一念一念に忘れず怠らない聖者の姿ではなく、業縁を生きる凡夫の姿に立って見ていかれている。縁が整ったときに自然とこぼれる念仏に仏のはたらきを感じて生きて行く。このことを善導大師の文は伝えて下さっていることを親鸞聖人は教えてくださっているのだと思います。…

 今回は、韋提希夫人が未来世の悪衆生が極楽世界を観ずる手立てを説くことを釈尊に請うことで、これから観想行が説かれるきっかけになる場面が描かれる「定善示観縁」と呼ばれるところを見ました。次回以降一つ一つの観想行を見ていきます。
 次回は3月10日(月)14時~となりますのでお気軽にご参加ください。…

 今回は第十四条について見ました。第十四条では念仏に滅罪の利益があると信じて念仏を申すという異義が取り上げられております。この異義に対して唯円は、われらの信ずるところにおよばずと悲嘆していかれますが、その核心は異義の念仏申す心は他力の信心ではなく自力の心であるということでした。テキストの『なぜ?からはじまる歎異抄』を輪読し、滅罪が往生浄土の要ではないことや、滅罪には自分から罪を剥ぎ取り身軽になりたいという自力のこころがあるのだと確かめました。
 次回は3月5日14時~第十五条について見ていきたいと思います。是非ご参加ください。…

今日の『御文』は、三帖目の最後となる十三通目に語られる、念仏行者のすがたや生活について考えました。それは、念仏を申し阿弥陀仏と共に生きるという軸をもって世間のことも大切にしていくという営みであった。
 『一念多念文意』については、しばらく触れていなかったので、改めて一念多念のそれぞれの義や、親鸞聖人が『一念多念文意』を著された背景、隆寛の『一念多念分別事』に挙げられている証文などについて見ました。次回から『一念多念文意』の本文に沿って親鸞聖人があきらかにしたかったことについて考えていきたいと思います。
 次回は2月27日14時からとなりますので、是非お参りください。…

今回は「散善顕行縁」のところを見ました。韋提希夫人の阿弥陀仏の世界に生まれたいという願いを聞いた釈尊は、微笑まれます。それは、ご自身が本当に説きたかったことを伝える縁が整った事を表しているのでしょう。そこで釈尊は先ず散善(散り乱れた心でも行える善行)について説きます。具体的には三福(世福・戒福・行福)が語られ、三世諸仏はこれらの善行を修めたのだと韋提希夫人に説かれます。
 次回は2月10日(月)14時から開催しますので、是非ご参加ください。…

 今回は前回に引き続き『歎異抄』第十三条について見ました。前回は宿業ということについて学びましたが、今回は「本願ぼこり」についてテキストを読みつつ考えて行きました。唯円は「本願ぼこり」を批判する者を異義と見ていますが、それは批判する者の善人意識に問題があると捉えての歎きでした。一方、文面では「本願ぼこり」を擁護するように見えても、自らの思いはからいで悪を造ろうとする者も、その実は善悪を自らが掌握しているという無明性を抱えているのだと教えていただいた。
 次回は2月5日(水)14時から開催いたします。第十四条を見ていきますので、是非ともご参加ください。…

式次第…正信偈草四句目下、念仏讃(三淘)弥陀成仏のこのかた次第六首、回向(願以此功徳)、御文(五帖目第二十二通)
 昨年の能登の地震が、年の始めに集まり共に勤行し共に聞法できるということが、いかに稀有なことであるかを感じさせてくれます。毎年修正会では、真宗の生活を確かめることを大切にしておりますが、今年は念仏と恩ということを、冊子『真宗の生活』に載っている二編から学びました。南無阿弥陀仏と念仏申すことの他に自らが生きていける道はない。そこには、自身の愚かさに立たしめられるからであり、そこに恩ということを感じてあゆむ道が与えられる。念仏を申し日々の生活のなかで阿弥陀さんと共に生きることは、愚かさに気付かされながら感謝のこころを持ってあゆむことなのだろうと思います。
 今年度も共に念仏を申しながら念仏の教えに学んでいきましょう。本年もよろしくお願いいたします。…