エントリー - 名響寺

9月4日 『歎異抄』輪読会を開催しました

 本日から『歎異抄』の輪読会を名響寺でも開催する運びとなりました。テキストは武田定光著『なぜ?からはじまる歎異抄』(東本願寺出版)です。輪読会は初めてのことなので、試行錯誤しながらテキストを皆で読み進めながら、疑問や感想を話し合えるような会にしていきたいと思っております。
 今回は前序のところを読みましたが、仏教は説いた者の偉大さよりも、聞いた者に響いた事によって伝わってきたこと意味深さを考えさせられました。

 次回は10月4日(水)14時から開催予定です。第一条について学んでいきますので、お気軽にご参加ください。…

9月 行事予定

9月6日(水)14時~ 『歎異抄』輪読会
武田定光著『なぜ?からはじまる歎異抄』を有縁の方々と輪読して歎異抄が語る真宗の世界に触れていきましょう。…

8月27日 親鸞聖人御命日の集いを開催しました

今日の『御文』三帖目第二通「如説修行」

 この『御文』では、二つの選択が説かれます。それは、聖道自力と無信単称ということです。聖道自力の問題は、何度も尋ねておりますが時機の問題です。その後の無信単称とは、浄土門の中の問題です。どちらの選択も、自身を通して経典に向き合っているかが問われているように思います。

『唯信鈔文意』・『唯信鈔』

8月21日 写教の会を開催しました

 前回から『仏説阿弥陀経』の書写をはじめております。「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。」とあります。西方浄土という言葉がありますし、来月行われるお彼岸も太陽が真西に沈むということで勤まるとも言われますが、その根拠となっている文が今日のところです。何故西方なのか。これはそう説いてあるからとしか言いようがないのですが、日が沈むというところに、死後を重ねる。或いは「万物の終期」を感じさせるということが度々言われることです。方向は西。ではどれくらいの位置にあるかといえば、「十万億の仏土を過ぎたところにあり、そこに阿弥陀さんがおられる」と説かれます。これは大分遠い所にあるという印象を受けますね。一方『観無量寿経』にはどう説かれているかと繙きますと、「汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。」とあります。この表現の違いは面白いと感じると同時に何か大切なことを表しているようにも思えます。『観無量寿経』にある「いま」とは韋提希夫人が、悪のない清らかな世界に生まれたいと願い、その願いに応えて釈尊が蓮の花が綺麗に咲いている国や七つの宝でできた国など様々な仏土を見せます。それを経て韋提希夫人は阿弥陀さんの浄土に生まれたいと願う。その時が「いま」です。この二つの経典を見て気が付くことは、他の仏の国土を見るのか或いは過ぎるのかということで、遠く感じたり近く感じたりする違いがあるということです。諸仏の世界を過ぎるのではなく、見るということが阿弥陀さんの浄土に触れる大事な機縁ということがわかります。では、具体的に諸仏の国土を見るというのはどのようなことをいうのかと考えてみますと、それは、浄土への歩みを始めたら、すでに諸仏が自分の周りにいたということに気が付いたということだと思います。あらゆる人に諸仏として出会い直す。例えば、近しい方がその命を精一杯生き抜いた、生きているというところにその方の世界を見、そこに阿弥陀さんのはたらきを同時に見るということです。ただ、過ぎるのではなく、見る。『阿弥陀経』では、過ぎる虚しさを十万億土という途方もない遠さで表して、過ぎるのではなく、1人1人の命が阿弥陀さんに念じられている、願われている命であると見なさいと促しているように感じます。
 次回は9月11日(月)14時からとなりますので、お気軽にご参加ください。…

名響寺輪読会開催のお知らせ

謹啓 厳暑の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。さて、下記の通り2023年9月6日(水)より、歎異抄の言葉に学んでいきたいという願いのもと、武田定光著『なぜ?からはじまる歎異抄』を有縁の方々と輪読していく会を開催いたしますのでご案内申し上げます。                         謹白…

8月行事予定

8月21日(月)14時~ 写教の会
今回から『仏説阿弥陀経』の書写を始めていきます。会の初めに『仏説阿弥陀経』について少し話をお聞きいただき、その後40分程『仏説阿弥陀経』を書写していただきます。お気軽にご参加ください。…

7月27日 親鸞聖人御命日の集いを開催しました

今日の『御文』三帖目第一通「摂取と光明」 

 この『御文』では、主に光明と摂取という阿弥陀さんのはたらきについて説かれていますが、その光明と摂取のはたらきは念仏者のみにはたらくのかという問題が言われることがあります。親鸞聖人の時には、阿弥陀さんの光が念仏者のみを照らしその他の行者は照らしていない摂取不捨曼荼羅図というものがあったようで、念仏停止の一因にもなっています。そして蓮如上人の時には、蓮如上人と同じ時代を生きた一休宗純が阿弥陀さんの慈悲に疑問を投げかける和歌を詠まれます。
 「阿弥陀には …

7月10日 写教の会を開催しました

 前回で「正信偈」を一通りたずね終えたということで、本日からは『仏説阿弥陀経』の書写をしていきます。初回ということで、『阿弥陀経』について少し見ていきますと、真宗では浄土三部経と呼ばれる『大無量寿経』・『観無量寿経』、そしてこの『阿弥陀経』(『小経』)を具体的には言って、大事な聖典としております。親鸞聖人はその浄土三部経を『大無量寿経』を真実の教とし、『観無量寿経』と『阿弥陀経』は方便の教として見ておられます。方便というとつまらないものだと思われるかもしれませんが、方便はとても大事なのです。方便があってはじめて真実に触れるということがあるわけです。その方便の教である『仏説阿弥陀経』は「無問自説経」とも呼ばれます。経典の多くはその経典が説かれることになった背景、「発起序」というものが描かれます。例えば『観無量寿経』では王舎城の悲劇が描かれますが、経典が説かれるきっかけとなる大事な問いがこの『阿弥陀経』にはありません。釈尊が智慧第一の舎利弗に対して、舎利弗よ舎利弗よと言ってずっと語っていかれます。普通はどうですか?という問いに対して、釈尊がお答えになるという形ですが、舎利弗が問うことはありません。なので『無問自説経』と呼ばれます。
 この『無問自説経』ということを親鸞聖人は、釈尊の出世本懐の経だと押さえられます。出世本懐ということは、この経を説く為に釈尊はお生まれになったという意味です。それほどこの『阿弥陀経』は大事なことを語っているのです。ここにある「恒沙の諸仏の証護の正意」ということは追々尋ねていきますが、誰に向かってその本懐を語っているかを今日は注目します。
 釈尊が阿弥陀経を説かれた場所は「祇樹給孤獨園」です。祇園精舎という呼び名が有名ですが、祇園精舎というのは、須陀多という長者に護られている精舎で、須陀多は孤児や独老など身寄りのない、一人では食べていくこともできない人々に手を差し伸べた方で、釈尊が説かれた阿弥陀経は、辛い生活をされていた方も聞いていたでろうことが想われます。その証拠に、この祇園精舎に集った有名な菩薩様に加えて、「無量の諸天・大衆と倶なりき。」と敢えて言って、大衆という一般市民も一緒に教えを聞いていたと書いてあります。菩薩とともに多くの大衆が一緒に聞いている。つまり、釈尊は優秀な者だけでなく、むしろ俗世に苦しみ生きる者たちに向かってこの阿弥陀経を説いているのです。そのことが、出世本懐の経と親鸞聖人が捉えた一因でもあるように思います。…

7月行事予定

7月10日(月)14時~ 写教の会
今回から『仏説阿弥陀経』の書写を始めていきます。会の初めに『仏説阿弥陀経』について少し話をお聞きいただき、その後40分程『仏説阿弥陀経』を書写していただきます。お気軽にご参加ください。…