10月2日 『歎異抄』輪読会を開催しました

今回は第十一条について見ました。第十一条からは「異義篇」と呼ばれ、実際にどのような異議が起こっていたのかが語られています。第十一条では、誓願と名号の不思議を二つに分けて考え、またその考えのもとに他の念仏者を問い詰めていく異義者の姿が述べられています。『歎異抄』の作者は、この異義に対して、誓願不思議も名号不思議は二つではなく一つであると言います。…
This author has not written his bio yet.
But we are proud to say that 名響寺 contributed 255 entries already.
今回は第十一条について見ました。第十一条からは「異義篇」と呼ばれ、実際にどのような異議が起こっていたのかが語られています。第十一条では、誓願と名号の不思議を二つに分けて考え、またその考えのもとに他の念仏者を問い詰めていく異義者の姿が述べられています。『歎異抄』の作者は、この異義に対して、誓願不思議も名号不思議は二つではなく一つであると言います。…
この度も春の彼岸会法要、盂蘭盆会法要に引き続き、「二河白道譬」についてたずねました。盂蘭盆会法要では、三定死のところまで読み進めまておりました。座して死を待つよりは、この道を進もうと旅人は決意します。すでにこの道があるというのは、私が道を開拓するのではなく、名も知らぬ多くの人が同じように渡った道だということでしょう。たとえ及ばずとも、この足跡をたどって進もう。こう思い立った時、旅人は後ろの東岸から勧める声を聞くのでした。東岸の声は、発遣と呼ばれます。発遣というのは、あなたの求道の道を勇気をもって進んで行けと、勧め励ますことです。これは、教えという意味を持ちます。例えば六角堂に百日参籠して出会った法然上人の教えは、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし。」でした。この教えは親鸞聖人を生涯励まし続け、あゆみを進ませます。そして、発遣の声を聞き、旅人が白道を渡ろうと思い立つとき、今度は西岸上よりの招喚の声を聞きます。これは、思い立ってから聞こえるというより、それ以前から呼んでいるのでしょう。聞いたのは発遣の声を聞いた今だが、その声は以前より絶えず呼びかけていたのです。発遣の声を聞く縁が熟して招喚の声は聞くことができるのです。招喚の呼びかけは「汝」です。「汝」と阿弥陀さんから呼びかけられる。これは、阿弥陀さんの目当てはこの私であったとの感得です。この「汝」について親鸞聖人は、必定の菩薩だと言います。必ず仏と成ると定まった者であると。
本願招喚の声は、このように発遣する声に応じて聞かれ、うなずかれていく内面の声である。だから、発遣の声を聞くことがなかったら、言い換えれば、教えに深くうなずくことがなかったならば、招喚の声を聞くことはないのだと思います。そして、この本願招喚の声に深くうなずいた心を信心というのである。
発遣・招喚の声を聞いた後、それで終わりかと思うと、第三の声が聞こえてきます。発遣と同じく、東岸から旅人を心配するような声が聞こえてきます。ここも面白いですね。きちんと私たちの歩みを表してくださっているように思います。「汝」と呼びかけれたら、もう何もないかというと、きちんと問いを捨てさせよう、あゆみを止めさせようとすることに遇うのです。それでも、さらにあゆみを続ける。親鸞聖人の歩みを想起すると、法然上人の教えに出遇ってそれで順風満帆に行ったかというと全くそうはなっていないのです。特に親鸞聖人は晩年に我が子善鸞を義絶することになるのですが、その書面にはかなしきかな、かなしきかな、と綴りその苦悩が痛い程に伝わってきます。その悲しみの中できいた声は、「弥陀の本願信ずべし」でした。…
現在『観無量寿経』の書写をしております。
今回から「禁母縁」と呼ばれるところに入りました。そこでは、父君のビンバシャラ王を殺害するために幽閉したアジャセが、母であるイダイケ夫人や釈尊のお弟子が助けようと動いている事を知り激怒して、母を賊だと罵り殺そうとする場面が描かれていました。次回はその後どうなるかを見ていきたいと思います。
次回は祝日になりますが10月14日(月)14時から開催いたします。…
今回は師訓篇の最後となります第十条について見ました。「無義をもって義とす。」ということを親鸞聖人は法然上人のおおせとして度々語ります。それは、法然上人の説かれた本願念仏の教えが、これまで自分が正しいと思っていた義を超えた世界を開き、無義にこそ人間が救われていく道があることの頷きがあったのだと思います。
次回から異義篇に入りますので、引き続き読み進めてまいりましょう。開催日は10月2日(水)14時からとなります。…
8月27日(火)14時から開催予定でおりました、親鸞聖人御命日の集いは、台風が接近する予報がなされていることを受け、安全を期して休会とさせていただきます。
御命日の集いは9月と10月はお休みですので、次回開催は11月27日となります。
皆さま、どうぞお気を付けてお過ごしください。…
今回は第9条について見ました。信仰のマンネリズムということで、お念仏を喜ぶ心が枯れていく自身の救いに不安を持った唯円房が、おずおずと師匠の親鸞聖人にその心境を吐露すると、親鸞聖人は自分も同じこころであるとお答えになられる場面が書かれております。親鸞聖人は続けて、喜ばせないのは煩悩のしわざであり、それはいわば煩悩具足の凡夫であることの証であるのだと。そして、そのような煩悩具足の凡夫をこそ救うために阿弥陀さんは立ち上がってくださったのだとたのもしく感じるでしょうと語りかけます。
煩悩を断じ得ないという悲しみ、不安のところにこそ、阿弥陀さんの慈悲は感じられるのだと確かめました。
次回は9月4日(水)14時から師訓篇の最後となります第10条について見ていきますので、是非ともご参加ください。…
今回の『御文』三帖目第十通では、真宗門徒が守るべき心得六箇条が説かれています。その背景には、吉崎の繫盛と比例して真宗門徒とそれ以外の者との軋轢が生じていたということがあります。蓮如上人は「仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬように」振る舞わなければならないと諭します。外相にそのいろ(不断煩悩得涅槃分)をみせる時、その者は自分は悟った、自分は正しいという誤ったところに立ってしまう。内心にふかく信じるとは、虚心に念仏の教えを聞き続けることであろうと確かめました。
その後、本格的に『一念多念分別事』・『一念多念文意』に入っていくにあたり、前回の『唯信鈔』・『唯信鈔文意』のように交互に言葉にあたるのではなく、先ずは『一念多念分別事』を読み進めて隆寛の考えを共有するために、現代語訳を読み進めながら引用されている教説やその意図について尋ねました。隆寛の考えは、聖覚の考えと軌を一にしており、一念の積み重なりが自然と多念になっていくというものであった。次回から親鸞聖人が『一念多念文意』でどのようなことを伝えてくださっているのか味わっていきたいと思います。…