今日は曇鸞章の「天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 往還回向由他力 …

今回は先ず安倍元首相が銃撃された事件の背景にカルト教団の問題があったことを受けて、師(教祖)と弟子について考えました。

そして今日の『御文』(二帖目第八通)で語られる諸仏と阿弥陀仏の関係について見ました。

『唯信鈔』は専修ということを証する文として引用した『法事讃』の文を軸にしながら、阿弥陀仏の誓願は「濁世の凡夫」のためであり、眠っても気が散ってもただ南無阿弥陀仏と称えることこそが阿弥陀仏の願いに応えることなのだということを確かめました。…

今回から曇鸞章に入り「本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授浄教 …

今年度の盂蘭盆会法要では、親鸞聖人が仏弟子の在り方を「無戒」ということで表したことについて考えました。

親鸞聖人は、果たして自分は「戒」をたもって生きていけるのであろうか、という問いに立って「持戒」の仏道を問い返していったのです。その問い返しの起点となったのが「末法の時代」を自分は生きているということだと思われます。親鸞聖人はたくさんの和讃を残されておりますが、その中に『正像末和讃』という特に末法に生きる自分というところに立って謳われた和讃があります。その最初に謳われているのが「釈迦如来かくれましまして、二千余年になりたまう、正像の二時は終わりにき、如来の遺弟悲泣せよ」という和讃です。ここには釈尊、お釈迦様のおられない時を生きる仏弟子の心情が謳われています。その悲しみに親鸞聖人は立たれたわけです。釈尊を失って行証のない仏教に虚しさ悲しさを覚えられたのです。しかし、悲しまれたのは末法を生きる親鸞聖人だけではなかったのです。実は一番悲しまれたのはお釈迦様なのです。私のいない世界で、煩悩の炎に焼かれる苦痛にさらされる者を悲しみ哀れむ心を持たれたのがお釈迦様です。そのお釈迦様が苦痛に沈む者たちのために残されたのが本願念仏の教えを説いた『大無量寿経』なのです。末法とは教えのみあって、それを行ずることができる者も、それを証し目覚めることができる者もいない時代です。その時代を生きる者の悲しみ、その衆生を悲しむお釈迦様の心。この二つの心が解け合うのが南無阿弥陀仏の世界といってもいいかと思います。

教のみあって行証の無い末法を生きる者が、何を持って仏弟子であると言えるのでしょうか。親鸞聖人が「化身土巻」に引用する天台宗の開祖最澄の著『末法灯明記』は初めに正法・像法・末法の時代区分や時代時代の在り方などを述べた後、末法の時代を「戒・定・慧はあることがないのである。」と結論付けます。この意味は大きく、末法に至っては、戒は仏弟子と言える根拠にはならないとお釈迦様から言われていることになります。そして、その後末法の世には「無戒名字の比丘」を世の宝とするということが言われるのです。戒をたもつものではなく、ただ「釋」の字を賜わり、名のって生きていく者を宝とするということは「釋」と名のる者が上に立っていくのではなく、横に共にという繋がりを大切にしていく存在となっていくことが真の宝であると釈尊は言われているのではないかと思います。もちろん個人の自覚としては愚かな身という事にあるのですが、釈尊は宝だと仰って下さっているのです。親鸞聖人は「愚禿釋親鸞」と名のった仏弟子でした。そこに「無戒名字の比丘」という意が表れているのだと思います。真宗は戒名ではなく法名です。そこにもまた「無戒名字の比丘」という意があらわれているのです。…

 

先ず今月の『御文』(二帖目第七通)に説かれる「五戒」と「易往而無人」に着目してそれぞれの意味合いをたずねました。その後『唯信鈔』の復習を兼ね「専修」ということを親鸞聖人がどのようにとらえておられたかを見ました。そこでは「ただ念仏」とは、こちらから行く行ではなく、向こうからきているものに目覚めよという方向転換が自身に起こったということなのだということを確かめました。

その後、お集まりいただいた皆さまと仏具のおみがきを行いました。お力添えいただいたおかげでとても綺麗になりました。気持ちよく盂蘭盆会法要を迎えられます。盂蘭盆会法要は7月13日(水)14時~ですので、是非お参りください。…

今回は天親章の最後になります「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」の2句について見ました。この2句は『浄土論』の還相回向を謳っているところが典拠になっております。還相回向に関しましては、迷っているあらゆる衆生を救うという大慈悲心が一番にあるわけです。自分一人だけではなく共に救われていくという大乗仏教の慈悲の精神が還相回向にあらわれているのです。その慈悲の心が仏になることにおいてはじめて実践することがかなうということが一つ言えるかと思います。しかし、今のこの私においてどう還相回向がはたらきかけているかが大事で、それは教え、南無阿弥陀仏と称えよという呼び声そのものが還相回向と言えるのではないと思っております。その実践は遊ぶようになされる。これが面白いことだと思います。

煩悩の林生死の園、つまり迷いの身迷いの世界に遊ぶようにはたらきかけるのだとあります。この遊ぶということには、「自在の義」があるのだと曇鸞大師は言います。曇鸞大師は自在の義を明らかにするために一つの譬えを出しております。それは、獅子が鹿を捉えるのに困難がないようなものだという譬えです。これは、ライオンが強くて鹿は弱いから何の困難もなく鹿を捕まえるということを言いたいのではありません。ライオンも狩りをするには相当に苦労をするわけです。狩りの成功率もそこまで高いわけではないのです。それでは困難がないとはどういうことかというと、純粋ということです。自然ということです。鹿をとらえるという行為に抵抗がないことを困難がないというのです。存在と行為が一つになっていることが遊びという語で表されているのです。つまり、仏が仏として生きるということは、衆生を救う以外にないのです。その存在と行為が一つになっている姿が「遊び」なのです。自在に衆生をたすけるはたらきをここでは讃えておられるのです。…

今回は先ず「葬儀」について、海法龍先生著の『誰のために葬儀を勤めるのか』によりながらたずねました。そして今日の『御文』(二帖目第六通)で課題となっている「掟」を通して、真宗の教えに触れた者は、教えを主張していくのではなく、柔軟に世間と歩んでいく姿を蓮如上人は願っておられたことを確かめました。

今日から『唯信鈔』に戻り、聖覚が述べることを学びました。今回のところは念仏往生にも専修と雑修に分かれ、専修がすぐれていることを明かしていく流れであったが、その中で雑修を勤める者の心を聖覚が言い当てていることに着目しました。そこで聖覚は、今までの慣習に捉われる、そして念仏と一緒に余の行を勤めて何の問題があるのかと思っている心を指摘しています。この聖覚の指摘に加えて、ただ念仏では不足を感じる心が雑修を勤める者にはあるのではないかということを確かめました。

次回の御命日の集いは、「仏具のおみがき」を行いますので、お力添えを頂ければと思います。…

今回は天親章の「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」の1句について見ました。特に阿弥陀の浄土をあらわす「蓮華蔵世界」という名の「蓮華」に着目しました。蓮華は淤泥華とも呼ばれますが、曇鸞大師は、

「淤泥華(おでいけ)」とは『経』(維摩経)に言わく、「高原の陸地(ろくじ)には、蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥に、いまし蓮華を生ず。」これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚(しょうがく)の華を生ずるに喩(たと)う。…

今日の『御文』(二帖目第五通)で問題になっている数珠を持たないということから「姿」の大切さを確かめました。

『唯信鈔文意』では親鸞聖人が回心について「自力の心をひるがえし、すつる」と解釈なさっていることを中心に見ました。これまで聖覚が第十八願念仏往生の願意を表す文として引用した慈愍和尚の『般舟三昧経』の言葉を、親鸞聖人がどのように解釈し、いなかの人々に伝えようとしているのかを見てきました。その中で第十八願の一切衆生を決して見捨てない「平等の慈悲」は私のためであった「本願の機」と受け止めたときに、世間の価値意識や自力で生きていけるという思い込みから解放され、本願他力の智慧と慈悲のはたらきを受けて生きていく者に変えられたことを学ばせて頂いた。

次回は『唯信鈔』に戻って、聖覚の言葉を見ていきたいと思います。…

今回は「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」について見ました。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏と称えそのはたらきを賜る者は、必ず大会衆の数に入るのだと讃えておられます。「大会」というのは、阿弥陀さんの会座のことを指します。阿弥陀さんの教えを聞く場に身を置くということです。では大会衆の数に入るとはどういうことなのかと申しますと、それは師と友を賜るということです。我も人も共に南無阿弥陀仏と称え阿弥陀さんにたすけられていく身なのだと頷いていくあゆみを共にする者を賜るのです。

宮城先生は「必獲入大会衆数」について、…