
今日の『御文』(二帖目第十四通「秘事法門」)
この『御文』では秘事法門という事が大きな問題として取り上げられております。越前の国は今でいう、福井と岐阜の辺りを言いますが、その辺りで秘事法門が流行っていたということです。秘事法門とはどのようなことを秘事として言っているかというと、例えば、不拝秘事は、「信心を得てからは、このわが身がもはや色も形もない無上仏になったので、絵像や木像は拝む必要はない。」という教えで、善知識だのみ(知識帰命)は「特定の人物を善知識と仰ぎ、善知識が現実に現れた如来であり、如来は具体的に善知識に代表されるとして、善知識をたのみ、善知識から信心が与えられるとする。」ものです。そして、一益法門は浄土真宗における利益は、現生において正定聚の位に入る益と当来における滅度の益との二益であるにもかかわらず、信の一念に正定聚の位につくのと同時に滅度の果を得るとする理解です。それらの秘事法門は現生、この身のままで覚りを開き仏になるということが言われてきます。
『歎異抄』第十五条には「煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつてのほかのことに候ふ。」という批判があります。「私はすでにさとりをひらいた。」ということと、親鸞聖人が信心定まった時に正定聚という必ず仏になる身と定まるということの違いをどのように頷いていくかという問題があるかと思います。これは、信心を得る、真宗では度々信心を阿弥陀さんよりたまわるというように言いますが、信心を得たということは、「私はすでにさとりをひらきました。」「もう救われました」ということを言い切らせないところに真宗の信心の特徴があろうかと思います。つまり、信心を賜ったということは過去の経験ということではないのです。何かしらの通過儀礼をしたらもう大丈夫などというものではないのです。煩悩を断ち切れないという身の事実を外れないのです。煩悩を断ち切れない、その悲しい者を救おうと立ち上がったのが阿弥陀さんであり、その阿弥陀さんの誓い本願を信じる心を賜っていくところに阿弥陀さんを感じて生きていく。これが真宗門徒の姿であろうかと思います。…



















