
今回は五濁(劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁)について見ました。釈尊が敢えて五濁という世で仏法を説かれたということに大切な意義があるのだと思います。その五つの濁りの中の衆生濁とは、個人主義になって共にということが見えなくなっていることを表しているのだと確かめました。
次回は6月10日(月)14時からとなります。今月のように天候不順の場合には開催を延期させていただきますので、その際はお知らせいたします。…
今回は五濁(劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁)について見ました。釈尊が敢えて五濁という世で仏法を説かれたということに大切な意義があるのだと思います。その五つの濁りの中の衆生濁とは、個人主義になって共にということが見えなくなっていることを表しているのだと確かめました。
次回は6月10日(月)14時からとなります。今月のように天候不順の場合には開催を延期させていただきますので、その際はお知らせいたします。…
今回は、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」という言葉が有名な『歎異抄』第六条について見ました。
第六条では、本願念仏の教えを伝える者(師)と聞く者(弟子)の関係性の中に、「如来よりたまわりたる信心」ではなく、師に支配する心、弟子に依存する心があっては、親鸞聖人の大事にされた御同朋・御同行の関係性とは異なってしまうことが語られています。御同行とは、共に阿弥陀仏にたすけられていく仲間としてお互いに敬っていく関係性であり、たまわりたる信心ということを要にしている繋がりなのです。
次回は第七条について見ていきます。6月5日(水)14時からとなりますので、是非お参りください。…
今回の『唯信鈔』では、今まで見てきました問答の最後になる四つ目を見ました。そこには当時の念仏者の間で最も問題となっていたともいえる「一念義」とも呼ばれる人々に対する聖覚の見解が説かれています。聖覚は、ただ一念(一声)さえ念仏を称えれば良いのだとして、何度も念仏申す者を非難する態度を「魔戒たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり」と厳しく戒めつつも、一声では少ないと思って念仏を何度も何度も申さなければ救われないという考えでは不信心と言わなければならないと説きます。
『唯信鈔』では、念仏を何度も申すことに、功徳を積むという表現がなされており、親鸞聖人の解釈とは異なりを見せるが、与えられた生命の中での一声一声の念仏の大切さを説き、それが自然と何度も念仏申す姿となるのだと教えてくださっています。そして、問答がおわった聖覚は、共に救われていく仏道にたち、共に念仏申すことを願うのです。
長い時間をかけて読み進めてきました、『唯信鈔』・『唯信鈔文意』を読み終えましたので、次回からは今日のところで課題となっていた「一念と多念の争い」にスポットをあてた隆寛律師の『一念多念分別事』とそこに引用される漢文を親鸞聖人が解釈した『一念多念文意』とを、これまでと同じような形で読み進めていきたいと思っております。お念仏は一声でいいのか、多く称えなければいけないのかという問題について、ご一緒に考えていきましょう。…
今回は第五条の「供養ってなに?」について輪読しました。親鸞聖人の父母に対する供養の考え方を学ぶことで、私たちの考えている父母への供養の意識と、本当に父母を大事にするということはいかなることなのかを考えました。そして、念仏申すということも、阿弥陀さんのはたらきであることも確かめました。
次回は5月1日(水)14時から開催いたします。
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今回は六方段を受けて、改めてこの『阿弥陀経』は一切諸仏の護念が説かれている経典なのだと確かめ、阿弥陀の浄土に生まれたいと願い念仏申す者は、その一念定まるところに、往生もまた定まることが説かれているところを見ました。念仏申す者は、諸仏の証誠護念のはたらきを受け、真っ直ぐに往生浄土の仏道を退転することなくあゆむことができるのです。
次回は5月13日(月)14時から開催いたしますので、お気軽にご参加ください。…
今回は本願寺出版から初めて「永代経」の冊子が刊行されましたので、先ず真宗における永代経の願いについて確かめました。その後、自分の「宗」(ムネ・中心)を、南無阿弥陀仏と申して生きていくことの内実を、善導大師の「二河白道譬」について見ることを通して考えました。浄土に往生するというと死後の話ように思われるかもしれませんが、そうではなく、今、南無阿弥陀仏と申すところに汝と呼びかけ続けてくださっている弥陀に包まれ、きみ行きなさいという釈迦諸仏の声に励まされ、思い通りにならない世をしっかりと生きて行く勇気を賜るのが、念仏往生、浄土真宗の生き方であろうかといただかれます。
当日は天候不順が予報される中、足をお運びいただき誠にありがとうございました。…
今回は前回に引き続き「六方段」の後半部分について見ました。親鸞聖人が阿弥陀経は大信心海に帰せしめることを願いとしていると領解していることについて確かめました。
次回は4月8日(月)14時からの開催を予定しております。お気軽にご参加ください。…
今回は『歎異抄』第四条について学びました。第四条では慈悲、慈愛ということが主に語られています。親鸞聖人は、聖道の慈悲と浄土の慈悲の具体相を説きながら、そこには「かわりめ」があるのだと教えてくださいます。その「かわりめ」とは、自分の起こす慈悲心、愛情の限界があると思い知らされる点です。私たちのたすけたいという思いは、自らが弥陀にたすけられる身となってはじめてすえとおるのでしょう。それは共に阿弥陀さんにたすけられる身であるという眼が開かれることかと思います。
次回は4月3日(水)14時からとなります。第五条について一緒に輪読して学びましょう。…
今回の『唯信鈔』では、前回に続いて四つの問答の内の三番目について見ました。そこで問題となっているのが、現生において五逆罪をつくっている念仏者が救われるのは宿善があるからであって、現生では五逆罪を犯してはいないが宿善の無い自分は浄土往生できないのではないかということです。つまり、宿善の有無によって浄土往生が定まるのではないかという問題です。この問題に対して聖覚は、現生に罪を犯さないことは宿善があることの表現であるといい、素晴らしい心はないが五逆罪を犯しておらず、今や阿弥陀仏の本願を深く信じて念仏申す姿が大事なのだと説き、宿善が無いと悩む者を諭しておられる。
聖覚は五逆罪をつくっていない者を「われら」と呼んでいるが、親鸞聖人は殺生という罪を犯さざるを得ない者たちを「われら」と呼び、本願念仏を味わわれた。また、親鸞聖人は宿善というような宿世のことをほとんど語られなかったことについては改めて考えていきたい。
3月は春の彼岸会がありますので、御命日の集いは休会になります。次回は4月27日になります。…
今回は『仏説阿弥陀経』で「六方段」と呼ばれるところを見ました。その六方段では、東・南・西・北・下・上の六方各々の世界にたくさんの仏様がおられ、阿弥陀仏の不可思議の功徳を称讃しているということが説かれます。親鸞聖人は無数の諸仏のお仕事を『愚禿鈔』で、勧…