お暑い中お参りいただきまして誠にありがとうございました。本年の盂蘭盆会法要では、春の彼岸会法要でも見た善導大師著『観経疏』の中で説かれる「二河白道譬」について見ました。春の彼岸会法要では、その概略を確かめましたが、今回は「二河白道譬」の原文に沿いながら、善導大師ご自身の解釈や親鸞聖人の解釈を通して初めから丁寧に読み進めました。今回は途中迄みましたが、譬喩の最初にある「人ありて」という「人」とは、生まれたこと、命、生き方に問いを持った者であり、その問いをもつと「二河白道」に示される場面(問いをもって歩みだす時に現れる課題が道筋)が現れ、私たちが道を求めることと、求め続けることの難しさを譬喩を通して学ぶことができた。秋の彼岸会法要では、白道を歩むと決定した者の響いた3つの呼び声について見ていきたいと思います。…

 今回は前回の「難信」に続き『仏説阿弥陀経』の大事な課題である「諸仏証誠」について見ました。まず、法然上人が諸仏証誠の背景に衆生の疑問、不信があると説いた言葉をみたあとに、親鸞聖人の諸仏の証誠があっての信心であるという言葉を受け、真宗の伝える信心は、個人的に信じる信心とは質が異なることを確かめました。
 今回で『仏説阿弥陀経』の書写は終了として、次回からは『仏説観無量寿経』の書写に入りたいと思います。初めての方も参加しやすいかと思いますので、お気軽にご参加お問い合わせください。
 次回開催は、第2月曜日ではなく、第3月曜日の8月19日(月)14時からとなりますのでご注意ください。…

 今回は『歎異抄』第八条で語られている「念仏は行者において、非行非善なり」ということについて見ました。第八条は、私の口から南無阿弥陀仏と念仏の声がでることの主体を私が行じるというように自分とみるのか、それとも阿弥陀さんの促しがあって私の口からこぼれるというように自分ではないとみるのかをよくよく考えなさいと迫ってくる言葉であると学びました。
 次回は8月7日(水)14時からとなりますので、お時間ございましたらご参加ください。…

 今回の『御文』が三帖目第九通「御命日」ということで、真宗門徒にとって親鸞聖人の御命日に集うことに願われていることを確かめました。また、近しい方の御命日を真宗が大事にするのは、その日を立ち止まって命を考える日だからなのだとお伝えしました。そして、御命日ということに関連して、法然上人の入滅やそのことを親鸞聖人がどのように受け止めていたのかを見ました。
 その後は、半年に一度の仏具のおみがきを皆で行いました。皆でおみがきをして、とてもお仏具がとても綺麗に輝いた状態で来月の盂蘭盆会法要を迎えることができます。お力添えいただきありがとうございました。
 7月13日(土)14時からの盂蘭盆会法要が勤まりますので是非ともお参りくださいませ。…

 前回で一通り『仏説阿弥陀経』を読みましたので、今回と次回で『阿弥陀経』で説かれている中で親鸞聖人が着目した「難信」と「諸仏の護念証誠」について、改めて見ていきたいと思います。
 今回は「難信」ですが、度々お念仏の教えを「易行難信」と表現されますが、その場合「難信」の「難」は「易」に対する言葉となってしまい、できるのが困難、信心獲得するのが難しいということになってしまう危うさがあります。そこには、自らの努力才能によっては獲得できるというニュアンスが残るかと思います。真宗でいう「難信」はむしろそういう自らの努力やはからいでは不可能ということを、「難」は表しているのでしょう。信心は私たち衆生が発起するのではなく、阿弥陀よりたまわりたる信心であると親鸞聖人が教えてくださっていることが、平等の信心という、共にという眼を開くのだと確かめました。 
 次回は7月8日(月)14時からとなりますので、是非ご参加ください。…

 今回は「念仏者は、無碍の一道なり。」という、印象深い言葉から始まる第七条の輪読をしました。阿弥陀の本願に帰依して生きる者は、「天神地祇」という私たちが頭を下げていくことで安心していくという形で縛られて生きて行く、或いは「魔界外道」という仏道の教え以外に安らぎを求めて自身を考慮しないで生きて行くことから自由になり、自身の業を受け入れていく勇気をたまわっていくのだということを確かめました。本願に立脚して生きて行くのか、思いはからいに立脚していくのがが問われているのだと思います。
 次回は7月3日(水)14時から第八条について見ていきますので、是非ご参加ください。…

 三帖目第八通で説かれる課題は「十劫安心」という親鸞聖人があきらかにされた信心の異なりです。「十劫安心」と言って自身は救われる身といくのか、それとも罪悪深重の凡夫として救われがたい身として生きていくのかが問われると思います。それによって、如来回向ということへの頷きも変わってくるのであろうということを確かめました。
 『唯信鈔』で最後にうたわれている結頌について聖覚が願ったことを確かめたあと、これから隆寛律師著の『一念多念分別事』と親鸞聖人著の『一念多念文意』を見ていくにあたり、隆寛のことや、聖覚と隆寛が登場する「嘉禄の法難」について見ました。
 次回は6月27日(木)14時からとなります。15時からは仏具のおみがきを行いますので、是非お力添えください。…

 今回は五濁(劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁)について見ました。釈尊が敢えて五濁という世で仏法を説かれたということに大切な意義があるのだと思います。その五つの濁りの中の衆生濁とは、個人主義になって共にということが見えなくなっていることを表しているのだと確かめました。
 次回は6月10日(月)14時からとなります。今月のように天候不順の場合には開催を延期させていただきますので、その際はお知らせいたします。…

 今回は、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」という言葉が有名な『歎異抄』第六条について見ました。
 第六条では、本願念仏の教えを伝える者(師)と聞く者(弟子)の関係性の中に、「如来よりたまわりたる信心」ではなく、師に支配する心、弟子に依存する心があっては、親鸞聖人の大事にされた御同朋・御同行の関係性とは異なってしまうことが語られています。御同行とは、共に阿弥陀仏にたすけられていく仲間としてお互いに敬っていく関係性であり、たまわりたる信心ということを要にしている繋がりなのです。

 次回は第七条について見ていきます。6月5日(水)14時からとなりますので、是非お参りください。…

 今回の『唯信鈔』では、今まで見てきました問答の最後になる四つ目を見ました。そこには当時の念仏者の間で最も問題となっていたともいえる「一念義」とも呼ばれる人々に対する聖覚の見解が説かれています。聖覚は、ただ一念(一声)さえ念仏を称えれば良いのだとして、何度も念仏申す者を非難する態度を「魔戒たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり」と厳しく戒めつつも、一声では少ないと思って念仏を何度も何度も申さなければ救われないという考えでは不信心と言わなければならないと説きます。
 『唯信鈔』では、念仏を何度も申すことに、功徳を積むという表現がなされており、親鸞聖人の解釈とは異なりを見せるが、与えられた生命の中での一声一声の念仏の大切さを説き、それが自然と何度も念仏申す姿となるのだと教えてくださっています。そして、問答がおわった聖覚は、共に救われていく仏道にたち、共に念仏申すことを願うのです。
 長い時間をかけて読み進めてきました、『唯信鈔』・『唯信鈔文意』を読み終えましたので、次回からは今日のところで課題となっていた「一念と多念の争い」にスポットをあてた隆寛律師の『一念多念分別事』とそこに引用される漢文を親鸞聖人が解釈した『一念多念文意』とを、これまでと同じような形で読み進めていきたいと思っております。お念仏は一声でいいのか、多く称えなければいけないのかという問題について、ご一緒に考えていきましょう。…