10月24日 報恩講を厳修しました

式次第 正信偈草四句目下 念仏讃淘三 …
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式次第 正信偈草四句目下 念仏讃淘三 …

緊急事態宣言があけましたので、久しぶりに写教の会を開催することができました。
本日は、前回は「宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 …

緊急事態宣言が延長されたことを受け、名響寺秋の彼岸会は内勤めにて厳修させていただきました。こちらに彼岸会によせた文章を載せますのでご一読いただければと思います。
皆さまはコロナウイルスワクチンを接種されたでしょうか?先日、日本人の半分以上が二回目の接種を終えたという報道を耳にしましたが、その中でワクチン接種をした方はホテルに割安で宿泊ができるということも伝えていました。日本ではまだ企業だけのことですが、ワクチン接種者への優遇が始まっています。海外に目を向けると、いわゆるワクチンパスポートというものをめぐる議論が盛んに行われているようです。例えば、ニューヨークやハワイでは実際に政策としてワクチンパスポートが導入された一方で、フランスではワクチンパスポートは差別につながるとしてデモがおこっていました。ワクチン接種の強制、或いはワクチン接種をしない人はおかしいという偏見が助長される恐れのあるワクチンパスポートは日本でも今後議論がなされると思います。このワクチンパスポートをめぐる差別の議論、あるいは、昨年から続くヘイトクライムのニュース映像を見ると、コロナウイルスというのは人間が持つ「差別性」を露わにしたウイルスでもあると言えるのではないかと思います。
ウイルスと差別という事でハンセン病が思い起こされます。私は以前東京都東村山市にある多摩全生園、国立ハンセン病資料館に伺ったことがあるのですが、その際に差別偏見の恐ろしさや惨さを感じました。このハンセン病は様々な呼ばれ方をするのですが、その中に「業病」という呼び名があります。これは、ハンセン病に罹ったのは前世に悪い行いをした報いだという、因果の道理を説く仏教の思想から出てきた呼び名なのです。仏道をあゆみハンセン病の症状と差別に苦しむ人々と共に生きようとする者が、逆に手を離してしまったことを物語る呼び名が「業病」です。真宗でも『歎異抄』第十三条に「宿業」という言葉が出てきますが、それを他者に向かって言い放つとき、それは鋭利な刃物となり相手を深く傷つけるのでしょう。本来「宿業」という言葉は、外への言葉ではなく、自らの内なるところで頷いていく言葉なのです。阿弥陀仏の光が苦悩の身を照らしてくださり、照らしてくださったことのうえに阿弥陀仏の大慈悲の心を感じて生きていく、自らの業というものを引き受けていくという力強い言葉なのです。人は誰にも代わってもらうことのできない苦しみ、悲しみに縁によってあっていかなくてはなりません。『歎異抄』は親鸞聖人が阿弥陀仏の慈悲を身に受けたことを「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と述懐した言葉を私たちに残してくださっています。宿業の身を生き抜いていく姿がここにあります。彼岸会を縁にあらためて阿弥陀仏の大慈悲を念仏申すことを通して感じていきたいと思います。…
緊急事態宣言が今月末まで延長されたことを受けまして、9月に予定していた行事(写教の会・真宗同朋の会、秋の彼岸会)は休会させていただきます。
ご予定下さっていた方々には大変申し訳ないと思っております。
来月、緊急事態宣言があけましたら例年通り10月24日(日)には報恩講を厳修する予定でおります。また、改めて他の行事とあわせてご案内させていただきますので、よろしくお願いいたします。…
2021年度千葉組親鸞教室オンライン講座開催のお知らせです。
依然として新型コロナウイルス禍が続いており、残念ながら今までの親
8月2日~31日迄、千葉県に緊急事態宣言が出された事を受けまして、予定をしていた写教の会、及び、親鸞聖人御命日の集いを休会とさせていただきます。
9月の行事に関しましてはまた改めてご連絡させて頂きますが、写教の会は9月13日(月)14時~を予定しております。
感染者数が過去最多を更新しているような状況ですので、皆様ご自愛くださいませ。…

台風の影響を心配しましたが、少し逸れてくれたお陰で開催する事ができました。
今回の『御文』(1帖目第十五通)では宗名の問題が取り上げられいましたので、浄土真宗という名告りにどのような意味があるのかを、親鸞聖人が実際に浄土真宗という言葉を使っている文を見ながら考えました。
『唯信鈔文意』では、『五会法事讃』の文の「彼仏因中立弘誓 …

今日は人が生きていくということについて、聖徳太子の「和」と「党」という言葉を通して見ました。人は1人では生きていけません。人との繋がりが無ければ生きていけません。真宗の学びも1人ではできません。そのように人間は和という交わりを求めて生きています。しかし、その和がいつのまにか歪な和になってしまうことがあります。それは自らが正しいというところに立ってしまう時です。その危うさに気付く機会が仏縁なのだと思います。自分はどういう立ち位置で生き、どのような和を求めているかを今一度考える機縁が今日あれば何よりかと思います。…
