12月4日 『歎異抄』輪読会を開催しました

今回は第十三条で説かれる「宿業」について見ました。宿業は決して運命論のような悲観的なものではなく、今、ここに私としてあることを受け止めましたという安定感を表していると学びました。
次回も第十三条についてみていきます。開催日が第1水曜日ではなく、第2水曜日の1月8日(水)14時からとなりますのでよろしくお願いいたします。…
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今回は第十三条で説かれる「宿業」について見ました。宿業は決して運命論のような悲観的なものではなく、今、ここに私としてあることを受け止めましたという安定感を表していると学びました。
次回も第十三条についてみていきます。開催日が第1水曜日ではなく、第2水曜日の1月8日(水)14時からとなりますのでよろしくお願いいたします。…

今回は「厭苦縁」とよばれるところを見ました。ここでは、わが子によって幽閉され苦しみやつれはてる韋提希夫人が、釈尊に来ていただくのは恐縮なので目連尊者阿難尊者に来て欲しいとの願いに対して、釈尊が説法を止めて自ら韋提希夫人の前に来るという場面が説かれます。そして、釈尊を目の前にした韋提希夫人は、瓔珞を捨て妃ではなく1人の人間として、自らが抱えている本心を釈尊に向かってぶつけます。
釈尊がわざわざ説法を止めてまで韋提希夫人のところに来た意味や、韋提希夫人の本音を通して、人間の持つ我が身一つがかわいいという姿について考えました。
次回は12月9日(月)14時からとなります。是非ご参加ください。…

今回は『歎異抄』第十二条について見ました。第十二条では、往生の要を学問(学文)するかどうかにかかっているという異義が取り上げられます。真宗では本願の教えを聞くことを大事にします。聞法の期間が長くなるにつれて、様々な経文にであい、様々な解釈があることを知っていきます。知識がふえることは尊いことですが、次第に本願のこころよりも獲得した知恵を誇って生きるようになる危うさもあるかと思います。聞法することは、常に本願のこころを聞いていくことが肝心なのでしょう。愚かな身と知らされ、その愚かな者を救おうと立ち上がられた願いを、これからも聞き訪ねていきたいと思います。
次回は12月4日(水)14時からとなります。第十三条について学んでいきます。…

式次第…正信偈草四句目下 念仏讃淘三 弥陀大悲ノ誓願ヲ次第六首 …

今回は前回に引き続き「禁母縁」について見ました。今回見たところでは、母親である韋提希夫人を殺そうとするアジャセ王をに対して大臣がそれを諌める場面が説かれていました。アジャセ王を諌める際に大臣が言った言葉が「是旃陀羅(ぜせんだら)」という差別語でした。親鸞聖人もご和讃でこの言葉を用いておられます。経典、そしてご和讃に差別語がありそのことで深く心を痛めておられる方がおられること、また、この問題について大谷派がどのように向き合っているのかを見ました。
次回は11月11日14時から開催いたしますので、お時間ございましたらご参加ください。…

今回は第十一条について見ました。第十一条からは「異義篇」と呼ばれ、実際にどのような異議が起こっていたのかが語られています。第十一条では、誓願と名号の不思議を二つに分けて考え、またその考えのもとに他の念仏者を問い詰めていく異義者の姿が述べられています。『歎異抄』の作者は、この異義に対して、誓願不思議も名号不思議は二つではなく一つであると言います。…

この度も春の彼岸会法要、盂蘭盆会法要に引き続き、「二河白道譬」についてたずねました。盂蘭盆会法要では、三定死のところまで読み進めまておりました。座して死を待つよりは、この道を進もうと旅人は決意します。すでにこの道があるというのは、私が道を開拓するのではなく、名も知らぬ多くの人が同じように渡った道だということでしょう。たとえ及ばずとも、この足跡をたどって進もう。こう思い立った時、旅人は後ろの東岸から勧める声を聞くのでした。東岸の声は、発遣と呼ばれます。発遣というのは、あなたの求道の道を勇気をもって進んで行けと、勧め励ますことです。これは、教えという意味を持ちます。例えば六角堂に百日参籠して出会った法然上人の教えは、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし。」でした。この教えは親鸞聖人を生涯励まし続け、あゆみを進ませます。そして、発遣の声を聞き、旅人が白道を渡ろうと思い立つとき、今度は西岸上よりの招喚の声を聞きます。これは、思い立ってから聞こえるというより、それ以前から呼んでいるのでしょう。聞いたのは発遣の声を聞いた今だが、その声は以前より絶えず呼びかけていたのです。発遣の声を聞く縁が熟して招喚の声は聞くことができるのです。招喚の呼びかけは「汝」です。「汝」と阿弥陀さんから呼びかけられる。これは、阿弥陀さんの目当てはこの私であったとの感得です。この「汝」について親鸞聖人は、必定の菩薩だと言います。必ず仏と成ると定まった者であると。
本願招喚の声は、このように発遣する声に応じて聞かれ、うなずかれていく内面の声である。だから、発遣の声を聞くことがなかったら、言い換えれば、教えに深くうなずくことがなかったならば、招喚の声を聞くことはないのだと思います。そして、この本願招喚の声に深くうなずいた心を信心というのである。
発遣・招喚の声を聞いた後、それで終わりかと思うと、第三の声が聞こえてきます。発遣と同じく、東岸から旅人を心配するような声が聞こえてきます。ここも面白いですね。きちんと私たちの歩みを表してくださっているように思います。「汝」と呼びかけれたら、もう何もないかというと、きちんと問いを捨てさせよう、あゆみを止めさせようとすることに遇うのです。それでも、さらにあゆみを続ける。親鸞聖人の歩みを想起すると、法然上人の教えに出遇ってそれで順風満帆に行ったかというと全くそうはなっていないのです。特に親鸞聖人は晩年に我が子善鸞を義絶することになるのですが、その書面にはかなしきかな、かなしきかな、と綴りその苦悩が痛い程に伝わってきます。その悲しみの中できいた声は、「弥陀の本願信ずべし」でした。…
