今日の『御文』(三帖目第三通)は河尻性光門徒に宛てたお手紙です。河尻というのは、現在でいえば吉崎別院がある所だそうです。そこにも、親鸞聖人の教えと異なった受け止めがなされているということです。二つの誤りが説かれています。そのうちの一つ、「無信単称」ということが今日読む『唯信鈔文意』のところにも関わってきますので着目しますと、無信単称というのは、ただ口に称名すれば極楽に往生するように思うということです。蓮如上人が度々注意を促してくださっているのが、その「いわれ」を知りなさいということでした。つまり、阿弥陀如来が全ての衆生を救いたいと思い立ち上がり念仏申せと仰ったのは、愚かな私一人を救うためであったと頷いていくことです。信というのは頷き、そうであったという頷き、私には念仏より他にたすかる法はないという頷きです。口に念仏申す。その姿は尊いです。入口はそれで充分なのです。ただ、それだけではもったいないということでしょう。お念仏の「いわれ」を聞いていく。「いわれ」を聞いて頷いて、いよいよ念仏申す身になっていく。そこが大事なのだと蓮如上人は伝えてくださっているのです。『唯信鈔』『唯信鈔文意』では、「念」は「称」であることが大きなこととして出てきます。観想念仏ではなく称名念仏という知見が善導大師によって明らかにされました。この無信単称という課題は、念仏というのは称名念仏なのだということが明らかになった後に出て来た課題ということになると言えましょう。その課題が別の形で表れたのが「一念多念という争い」です。

 『唯信鈔文意』で第十八願文の言葉を解釈するところで、親鸞聖人は「乃至」という言葉をとおして、こちら側の条件がないことを教えています。本来、こちらからの条件はないのだけれど、衆生の方が色々とはからって一念義・多念義という優劣をつけ、往生に条件を付けていくのです。これは人間の業といいますか、法蔵菩薩の願いをも、自分の思うようにはからって、自分の解釈が正しい、善い解釈なのだとしていってしまう。そのような課題が親鸞聖人の時代にもあったのです。

 次回のおたいやは12月27日になります。年末でお忙しいとは思いますが、仏具のおみがきもございますので是非お力添えください。…

 今回は、何故に「阿弥陀」と名づけるのかというところが説かれるところを見ました。そこには、光明無量・寿命無量・人民無量が語られます。量りしれない空間と時間でもって一切衆生を摂め取って捨てないはたらきを「阿弥陀」という3字は表しているということを確かめました。

 次回は12月11日(月)14時~開催予定ですので、お気軽にご参加ください。…

 今回は第二条の前半部分「往生ってなに?」を輪読しました。
 「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という教えを聞いていた関東の御門弟が、親鸞聖人が京都に戻られた後、その教えに立って生きていくことに不安を覚えて直接親鸞聖人に会って話を聞きたいという事柄を通して、門弟達の心根や念仏をどのような思いで称えているか、そして往生という事をどのように考えているかという課題を見ました。…

式次第 正信偈草四句目下 念仏讃淘三 …

 前回に続き阿弥陀の浄土の荘厳が説かれているところを今回も見ました。今日の所では、やわらかでみやびやかな鳥の鳴き声や、宝の樹がそよ風に吹かれて揺れる音が、念仏・念法・念僧という三宝を敬う思いをそこにいる者に起こさせるという荘厳が説かれていました。『法華経』に「声仏事を為す」という言葉がありますが、音の響きが大切なはたらきをするということです。私たちも、素晴らしい声明に触れると何ともいえない感動を覚えることがあるかと思いますが、それに近い感覚なのかもしれません。

 次回は11月13日(月)14時~の開催となりますので、是非ご参加ください。…

 今回は第一条を「信心」ということを中心に尋ねていきました。私たちが考える「信心」と『歎異抄』が語る「信心」とは主語が異なるという指摘のもと、皆さんの考えも聞きながら『歎異抄』が語る信心を確かめて行く中で、なかなか難しい、分からないという言葉もあがりましたが、わからないことが案外大切なことなのだと思います。わからないことをがあってはじめて、繰り返し繰り返し尋ねていくことができるのだと思います。
 すぐに答えを求めず、ゆっくりと『歎異抄』の「信心」を味わっていきたいと思います。次回は11月1日(水)14時~となります。是非ともご参加ください。…

 今年は関東大震災が起こって100年という年に当たるということを受け、メディアでも多くの特集が組まれておりました。関東大震災では、約10万人の方が亡くなったそうです。100年前を元号でいえば大正12年になります。私の祖母は大正14年の生まれなので、震災から2年後に産まれたわけです。祖母は東京の生まれなので、もし祖母の両親が震災で亡くなっていたら、今の自分というものはなかったのだろうなと、不思議と考えてしまいました。そして、今回の特集で特に取り上げられていたのが、震災直後に朝鮮人や行商人が、デマによって沢山殺害されたということでした。震災というパニック、受け入れ難い現実の置かれたなかで、朝鮮人が悪行をしている。それを懲らしめるのは当然で正義だということが、自分を立てていく手段になったのであろうと思います。そのような流れの中でも、警察署に朝鮮人を匿った方もおられたそうですが、自分にとって不都合なことに出会った時に、その事実とどのように向き合っていくかといったところに、教えというものがあるのではないかと考えさせられたことです。

 今、私がある、生きていることの不思議をふと感じたわけですが、「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」というテーマが先の750回御遠忌の時に立てられました。もう10年以上前に立てられたテーマですが、今日はその「よろこび」ということを、皆さんと考えていきたいと思います。よろこび、という字は、御遠忌のテーマでは「喜」という字が使われておりますが、他にも「歓」や「慶」や「欣」などでもよろこびと読みます。またそれらを合わせて「歓喜」という熟語で経典にも出てきます。例えば『大無量寿経』の第18願成就文には「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。」とあります。また、親鸞聖人は特に「慶喜」という言葉をよくお使いになっておられます。身近なところで言えば正信偈で「信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん」と謳っておられます。

 例に出した正信偈の言葉を親鸞聖人は『尊号真像銘文』で「大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。」と押さえてくださっております。独特の表現ですが、『唯信鈔文意』では「慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。」とあります。二つの「慶」の字の解釈を通してみますと、うべきことは信心であるということがわかりますが、普通に生きておりますと、自分が生まれきて「うべきこと」が何かがはっきりしないということがあるかと思います。それこそ、うべきことが「信心」であるとここに説かれていても、なかなか自分のこととしてはっきりとしない、自分が生まれてきて、うべきことは果たして信心なのだろうかという感覚です。最初に一緒に読みました三帰依文に、受け難くして人の身を既に受けていた、聞き難い仏法を既に聞いていたという表白がありますが、それを感動の言葉として読めるかということです。…

 今回は『阿弥陀経』に説かれる極楽浄土の荘厳について見ました。そもそも極楽浄土とはどのような世界かと言えば、諸々の苦がなくただ、諸々の楽を受ける世界だと説かれます。釈尊の覚りに「一切皆苦」ということがありますが、極楽浄土では反対に「一切皆楽」と言ったところでしょうか。その極楽浄土の荘厳ということを見ていきますが、藤場先生はこのあたりで説かれているのは、当時のインドの人々の感覚なのだと言います。楽を受けると言っても、それは人時代や国などで異なる。これはそうですね。なので、普遍的な荘厳ということではないということを少し頭に入れて見て行きましょう。最初に七重と言って周りが、欄楯、羅網、行樹で囲まれてあるとあります。手すり、石垣、飾りのついたレースや並木で、守られているという様子なのだと。石垣は、外敵から襲われる苦しみがないということです。現代でいえば、セキュリティーがきちんとしている方が安心という感覚でしょうか。レースは、暑さを和らげる涼しさを、並木は自然の豊かさを感じさせます。その次には七宝の池があり、なかには八つの功徳がある水があふれているとあるなどといった表現が続き、車輪程の大きな蓮華がそれぞれの色の花がそのままの色の輝きを放っているという表現が出てきます。また、今日の最後のところでは、天に音楽が奏でられ、一日に6回曼荼羅の華が降ってくる。朝になると極楽から花かごを持って出かけていき、諸仏を供養して帰ってきたあと、食事をしたり散策するという朗らかな世界が描かれています。

 次回は10月16日(月)14時からになります。第二週ではないのでご注意ください。…

 本日から『歎異抄』の輪読会を名響寺でも開催する運びとなりました。テキストは武田定光著『なぜ?からはじまる歎異抄』(東本願寺出版)です。輪読会は初めてのことなので、試行錯誤しながらテキストを皆で読み進めながら、疑問や感想を話し合えるような会にしていきたいと思っております。
 今回は前序のところを読みましたが、仏教は説いた者の偉大さよりも、聞いた者に響いた事によって伝わってきたこと意味深さを考えさせられました。

 次回は10月4日(水)14時から開催予定です。第一条について学んでいきますので、お気軽にご参加ください。…

今日の『御文』三帖目第二通「如説修行」

 この『御文』では、二つの選択が説かれます。それは、聖道自力と無信単称ということです。聖道自力の問題は、何度も尋ねておりますが時機の問題です。その後の無信単称とは、浄土門の中の問題です。どちらの選択も、自身を通して経典に向き合っているかが問われているように思います。

『唯信鈔文意』・『唯信鈔』