
旧年中は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。
今年度の修正会でも真宗門徒の生活について一年の始まりに皆さんと確かめました。毎年本願寺出版から出ている『真宗の生活』から2編を取り上げ、南無阿弥陀仏と念仏申す生活は、阿弥陀さんと共にあるということを感じて生きていくことであると学びました。…

旧年中は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。
今年度の修正会でも真宗門徒の生活について一年の始まりに皆さんと確かめました。毎年本願寺出版から出ている『真宗の生活』から2編を取り上げ、南無阿弥陀仏と念仏申す生活は、阿弥陀さんと共にあるということを感じて生きていくことであると学びました。…

今回は三帖目第四通「大聖世尊」を見た後、『唯信鈔』の最後にある問答の一番目を見ました。『唯信鈔』では、臨終の念仏の功徳と平生の念仏の功徳では、臨終の念仏の方がはるかに功徳があるという考えについて、聖覚がどのように説いているのかということを見ていくなかで、自らの命が危うくなった時には、様々なものに頼ってなんとかしたいという思いが強くなるということが指摘されていました。普通は病に倒れれば、健康になることが救いであると考えるが、真宗ではそれを受け止める勇気を阿弥陀仏からたまわって生きて行くことが救いであるということを、「大聖世尊」の『御文』の流れで確かめた。
その後は、仏具のおみがきをおこないました。お集まりいただきました皆さまが一生懸命に磨いてくださったおかげで、とても綺麗になりました。本当にありがとうございました。
修正会を1月1日11時から厳修いたしますので、年の始まりに是非お参りください。…

今回は「諸上善人 俱会一処」という言葉について見ました。「俱会一処」は真宗の墓石に刻まれていることもあるので、見たことがあるという方は多いかもしれません。『阿弥陀経』の文脈では、「諸上善人 俱会一処」であるから、阿弥陀の浄土に生まれたいという願いがおこるのだといいます。この諸上善人というのは、尊い存在ということです。尊いというのは、阿弥陀さんが自身に願いをかけていることに気付き南無阿弥陀仏と念仏を申す生活を送っている姿です。阿弥陀さんの願いが自身に届いたという覚知は、同時に隣の人に等しく届いているという覚知でしょう。そこに「俱に」という人間のもとめるものが成就する。煩悩具足の凡夫である私に尊い根拠はありませんが、阿弥陀さんに念仏申せと願われその願いに応えて念仏申す姿は尊いのです。それはまた、念仏申す仲間を見出していくことにもなるのでしょう。…

今日の『御文』(三帖目第三通)は河尻性光門徒に宛てたお手紙です。河尻というのは、現在でいえば吉崎別院がある所だそうです。そこにも、親鸞聖人の教えと異なった受け止めがなされているということです。二つの誤りが説かれています。そのうちの一つ、「無信単称」ということが今日読む『唯信鈔文意』のところにも関わってきますので着目しますと、無信単称というのは、ただ口に称名すれば極楽に往生するように思うということです。蓮如上人が度々注意を促してくださっているのが、その「いわれ」を知りなさいということでした。つまり、阿弥陀如来が全ての衆生を救いたいと思い立ち上がり念仏申せと仰ったのは、愚かな私一人を救うためであったと頷いていくことです。信というのは頷き、そうであったという頷き、私には念仏より他にたすかる法はないという頷きです。口に念仏申す。その姿は尊いです。入口はそれで充分なのです。ただ、それだけではもったいないということでしょう。お念仏の「いわれ」を聞いていく。「いわれ」を聞いて頷いて、いよいよ念仏申す身になっていく。そこが大事なのだと蓮如上人は伝えてくださっているのです。『唯信鈔』『唯信鈔文意』では、「念」は「称」であることが大きなこととして出てきます。観想念仏ではなく称名念仏という知見が善導大師によって明らかにされました。この無信単称という課題は、念仏というのは称名念仏なのだということが明らかになった後に出て来た課題ということになると言えましょう。その課題が別の形で表れたのが「一念多念という争い」です。
『唯信鈔文意』で第十八願文の言葉を解釈するところで、親鸞聖人は「乃至」という言葉をとおして、こちら側の条件がないことを教えています。本来、こちらからの条件はないのだけれど、衆生の方が色々とはからって一念義・多念義という優劣をつけ、往生に条件を付けていくのです。これは人間の業といいますか、法蔵菩薩の願いをも、自分の思うようにはからって、自分の解釈が正しい、善い解釈なのだとしていってしまう。そのような課題が親鸞聖人の時代にもあったのです。
次回のおたいやは12月27日になります。年末でお忙しいとは思いますが、仏具のおみがきもございますので是非お力添えください。…

今回は、何故に「阿弥陀」と名づけるのかというところが説かれるところを見ました。そこには、光明無量・寿命無量・人民無量が語られます。量りしれない空間と時間でもって一切衆生を摂め取って捨てないはたらきを「阿弥陀」という3字は表しているということを確かめました。
次回は12月11日(月)14時~開催予定ですので、お気軽にご参加ください。…

今回は第二条の前半部分「往生ってなに?」を輪読しました。
「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という教えを聞いていた関東の御門弟が、親鸞聖人が京都に戻られた後、その教えに立って生きていくことに不安を覚えて直接親鸞聖人に会って話を聞きたいという事柄を通して、門弟達の心根や念仏をどのような思いで称えているか、そして往生という事をどのように考えているかという課題を見ました。…

式次第 正信偈草四句目下 念仏讃淘三 …

前回に続き阿弥陀の浄土の荘厳が説かれているところを今回も見ました。今日の所では、やわらかでみやびやかな鳥の鳴き声や、宝の樹がそよ風に吹かれて揺れる音が、念仏・念法・念僧という三宝を敬う思いをそこにいる者に起こさせるという荘厳が説かれていました。『法華経』に「声仏事を為す」という言葉がありますが、音の響きが大切なはたらきをするということです。私たちも、素晴らしい声明に触れると何ともいえない感動を覚えることがあるかと思いますが、それに近い感覚なのかもしれません。
次回は11月13日(月)14時~の開催となりますので、是非ご参加ください。…

今回は第一条を「信心」ということを中心に尋ねていきました。私たちが考える「信心」と『歎異抄』が語る「信心」とは主語が異なるという指摘のもと、皆さんの考えも聞きながら『歎異抄』が語る信心を確かめて行く中で、なかなか難しい、分からないという言葉もあがりましたが、わからないことが案外大切なことなのだと思います。わからないことをがあってはじめて、繰り返し繰り返し尋ねていくことができるのだと思います。
すぐに答えを求めず、ゆっくりと『歎異抄』の「信心」を味わっていきたいと思います。次回は11月1日(水)14時~となります。是非ともご参加ください。…

今年は関東大震災が起こって100年という年に当たるということを受け、メディアでも多くの特集が組まれておりました。関東大震災では、約10万人の方が亡くなったそうです。100年前を元号でいえば大正12年になります。私の祖母は大正14年の生まれなので、震災から2年後に産まれたわけです。祖母は東京の生まれなので、もし祖母の両親が震災で亡くなっていたら、今の自分というものはなかったのだろうなと、不思議と考えてしまいました。そして、今回の特集で特に取り上げられていたのが、震災直後に朝鮮人や行商人が、デマによって沢山殺害されたということでした。震災というパニック、受け入れ難い現実の置かれたなかで、朝鮮人が悪行をしている。それを懲らしめるのは当然で正義だということが、自分を立てていく手段になったのであろうと思います。そのような流れの中でも、警察署に朝鮮人を匿った方もおられたそうですが、自分にとって不都合なことに出会った時に、その事実とどのように向き合っていくかといったところに、教えというものがあるのではないかと考えさせられたことです。
今、私がある、生きていることの不思議をふと感じたわけですが、「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」というテーマが先の750回御遠忌の時に立てられました。もう10年以上前に立てられたテーマですが、今日はその「よろこび」ということを、皆さんと考えていきたいと思います。よろこび、という字は、御遠忌のテーマでは「喜」という字が使われておりますが、他にも「歓」や「慶」や「欣」などでもよろこびと読みます。またそれらを合わせて「歓喜」という熟語で経典にも出てきます。例えば『大無量寿経』の第18願成就文には「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。」とあります。また、親鸞聖人は特に「慶喜」という言葉をよくお使いになっておられます。身近なところで言えば正信偈で「信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん」と謳っておられます。
例に出した正信偈の言葉を親鸞聖人は『尊号真像銘文』で「大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。」と押さえてくださっております。独特の表現ですが、『唯信鈔文意』では「慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。」とあります。二つの「慶」の字の解釈を通してみますと、うべきことは信心であるということがわかりますが、普通に生きておりますと、自分が生まれきて「うべきこと」が何かがはっきりしないということがあるかと思います。それこそ、うべきことが「信心」であるとここに説かれていても、なかなか自分のこととしてはっきりとしない、自分が生まれてきて、うべきことは果たして信心なのだろうかという感覚です。最初に一緒に読みました三帰依文に、受け難くして人の身を既に受けていた、聞き難い仏法を既に聞いていたという表白がありますが、それを感動の言葉として読めるかということです。…