1月行事予定
※コロナウイルスの感染拡大により「緊急事態宣言」が発令された場合は、写教の会とご命日の集いは休会とさせていただきます。また、その他の会の開催につきましては随時ホームページでお知らせさせていただきます。
※行事に関しまして気になる点等がございましたらお気軽にお問い合わせください。
1月1日(日)11時~ …
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今月の『御文』(二帖目第十一通)で大きな問題として取り上げられている「善知識だのみ」という問題を見ていきました。善知識だのみとは、阿弥陀さんよりも自分の師匠、善知識を本としていく、善知識ばかりを頼んでいくあり方です。そのような善知識だのみに対して蓮如上人は、善知識というのは阿弥陀さんに一心一向に帰依せよと勧めて下さる存在、そういうはたらきを善知識というのだと伝えてくれております。これはいつの時代も問題としてあるのではないかと思います。教えを説き、自らの歩む道を照らしてくれる身近な存在が自分にとって大きくなっていくのは仕方がないことだと思います。例えばほとんどの新興宗教は教え導く存在に帰依することが求められるわけですが、自分にとって大きな存在に帰依するというのはある意味で簡単といいますか、それだけでいいというと語弊があるかも知れませんが、とにかく身近な師に帰依していく。そこで止まってしまうことを問題としているわけです。これは、帰依する者だけでなく、その師、善知識にも問題があるわけです。弥陀に帰依することを勧めるのが本来のはたらきであるのに、それがそうなっていない。立ち止まらせているわけですから。先月、報恩講が本山で1週間かけて勤まりましたが、私たちが親鸞聖人をどのように見ていくのかとも重なりますし、親鸞聖人はどのように御門徒と接していかれたのかということです。親鸞聖人と御門徒の関わりを改めてみますと、親鸞聖人の遺言だと伝えられている言葉があります。『ご臨末の御書』に「一人居て喜ばば二人と思うべし、二人居て喜ばば三人と思うべし、その一人は親鸞なり。」と親鸞聖人はおっしゃったと伝わっております。これは本当は親鸞聖人は言っていないという事もいわれますが、御門徒の中の親鸞聖人ということでしょう。親鸞聖人という方は共に喜んでくださる存在だということです。もう一つみてみますと、一帖目第一通の『御文』には、親鸞聖人は御同朋御同行とかしづく交流をしていたのだと書かれています。上にたつのではなく、共に阿弥陀さんに救われていく存在だということですね。このあたりのことは真宗を学んでいく姿としてとても大切なことだと思います。善知識をどのように仰いでいくのか、偉大な人とみていくのか、御同行とみていくのか。翻って善知識と言われるものは御門徒をどのようにみていくのか。このことが、今日の御文から問われているように思います。
その後、お集まりいただいた皆様と仏具のおみがきをしました。お陰様でとてもきれいになり、修正会を厳修することができます。本当にありがとうございました。
修正会は、1月1日(日)11時からですので、是非ともお参りください。…
今日から善導章に入りました。普段お勤めする正信偈ですとここから調子が変わります。その「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁 …
来春に親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年の慶讃法要が厳修されます。そこで、来年2月まで御命日の集いの中でお勤めの練習をやってまいります。今月は念仏讃の初重について息継ぎのタイミングを中心に練習しました。12月は二重、1月は三重、2月は回向文とまとめという流れでやっていきたいと思います。
今月の『御文』は「仏凡一体」ということが大きなテーマとなっている御文です。御文でどのように説かれているかを見ますと、「すでに行者のわろきこころを、如来のよき御こころとおなじものになしたまうなり。このいわれをもって仏心と凡心と一体なるといえるはこのこころなり。」とあります。念仏者と阿弥陀さんの心が同じものになる。これはどういうことなのでしょうか。わろき心というのは、縁によって様々な感情が出てきて自他ともに傷つけていく心、善悪のはからいでもって全てを捉えていく心と考えられます。そして、阿弥陀さんのよき御心というのは、そのようなものをこそたすけたいという慈悲の心でしょう。そのわろき心とよきこころがおなじものになる。これは、善悪で述べられているので対比のように見えてしまいますが、仏心凡心は比べられるようなものではありません。思うに、南無阿弥陀仏と念仏申すところで阿弥陀さんの心に触れて、わろき心の自覚を持ち、阿弥陀さんの心をよき心と仰いでいく。わろき心とよきこころが南無阿弥陀仏をとおして通じていく。そのようなことが思われます。似たようなことで「生死即涅槃」ということがありますが、迷いが「即」涅槃なのだと。これも念仏者の頷きではありますが、念仏者のはからいではなく、阿弥陀さんのはたらきを受けてはじめて「即」ということが言えるのだと思います。今、蓮如上人は「おなじ」ということで仏心凡心一体の内実を、「これによりて、弥陀如来の遍照の光明のなかにおさめとられまいらせて、一期のあいだはこの光明のうちにすむ身なりとおもうべし。」と語ります。これが、とても大事なところです。一期のあいだ、つまり一生涯阿弥陀さんの心のなかに生きるということが、仏心凡心が一体であるということなのです。わろき心がよき心と同じになって立派な者になるとかそういう話をしているわけでは決してないのです。阿弥陀さんの光明のなかに住む身として生きていく。ここに人と生まれた喜びというものがあるのではないかと思います。
そして『唯信鈔文意』では『法事讃』の「随縁雑善恐難生」「故使如来選要法」について見ました。「随縁雑善恐難生」の所で親鸞聖人は、随縁雑善という言葉を、自力の善根を修め、その功徳を極楽浄土の生まれるために回向する姿だと言います。いわゆる自力回向、こちらから浄土へという方向性のあゆみと見ます。そしてそれらは8万4千の法門なのだと親鸞聖人はいいます。そのような自力の善根をたのみとするようでは、平等の真実報土へは生まれることが出来ないのですよといなかの人々に伝えているわけです。「きらわるる」という表現もありますが、親鸞聖人はたまにこの「嫌う」という言葉をよくお使いになります。阿弥陀さんのこころに適わないということですね。この8万4千というのに対して、真宗の教えは「門余の仏道」であると親鸞聖人は説かれます。8万4千の教えとは質が違う。こちらの能力条件を一切問わない、仏からの仏道なのだというのです。だから平等ということが言えるのだというのが、親鸞聖人のいただきです。…
今日は「三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 一生造悪値弘誓 …
式次第 正信偈草四句目下 念仏讃淘三 …
今日から道綽章に入りました。最初に道綽禅師について確認しました。道綽禅師が生きられたのは562年~645年です。道綽禅師は14歳で生活のために出家しますが、廃仏毀釈政策によって16歳で還俗させられます。その後隋の時代になり21歳でまた出家をします。それから道綽禅師は『涅槃経』を熱心に学ばれます。『涅槃経』を何回も講義をするほどにまでなりますが、自分の中ではっきりしないものがあったようです。それが、たまたまかつて曇鸞大師が住まわれた玄忠寺を訪れた際に曇鸞大師の生涯を記した石碑の文を見て浄土の教えに帰したと伝わっております。
そして浄土の教えに帰して著したのが『安楽集』です。『安楽集』の書き出しで、教・時・機とが相応しなければ修道に功がないのだと語られます。この『安楽集』は親鸞聖人がこの正信偈でも和讃でも讃えておられるように聖道門は覚り難い。ただ浄土門のみが自分が救われていく道だということを明かしているのですが、その決め手となったのが時機の自覚です。『安楽集』に「大聖遥遠」という言葉と「理深解微」という言葉が出てまいります。最初が「時」の自覚でこの世は末法なのだという自覚です。教行証の中で教えのみがある時代です。そして次の言葉が「機」の自覚です。機というのは仏教では人間を指す言葉ですが、特に道を求める人間です。人間が仏教の深い真理を理解する力がまことにわずかであるという自覚です。この時機、末法の世を生き愚かであるこの身に相応する教えは浄土門しかないのだ。こういう決着が道綽禅師にはあり、そこに立脚しておられるのです。そのことを親鸞聖人は「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」と讃えておられるのです。…