3月行事予定
3月6日(水)14時~ 『歎異抄』輪読会
武田定光著『なぜ?からはじまる歎異抄』の第4条について見ていきます。…
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今回の『唯信鈔』では、前回に続いて四つの問答の内の三番目について見ました。そこで問題となっているのが、現生において五逆罪をつくっている念仏者が救われるのは宿善があるからであって、現生では五逆罪を犯してはいないが宿善の無い自分は浄土往生できないのではないかということです。つまり、宿善の有無によって浄土往生が定まるのではないかという問題です。この問題に対して聖覚は、現生に罪を犯さないことは宿善があることの表現であるといい、素晴らしい心はないが五逆罪を犯しておらず、今や阿弥陀仏の本願を深く信じて念仏申す姿が大事なのだと説き、宿善が無いと悩む者を諭しておられる。
聖覚は五逆罪をつくっていない者を「われら」と呼んでいるが、親鸞聖人は殺生という罪を犯さざるを得ない者たちを「われら」と呼び、本願念仏を味わわれた。また、親鸞聖人は宿善というような宿世のことをほとんど語られなかったことについては改めて考えていきたい。
3月は春の彼岸会がありますので、御命日の集いは休会になります。次回は4月27日になります。…
今回は『仏説阿弥陀経』で「六方段」と呼ばれるところを見ました。その六方段では、東・南・西・北・下・上の六方各々の世界にたくさんの仏様がおられ、阿弥陀仏の不可思議の功徳を称讃しているということが説かれます。親鸞聖人は無数の諸仏のお仕事を『愚禿鈔』で、勧…
今回は『歎異抄』第三条について見ました。特に、世間の人々が考える善人と悪人と、親鸞聖人が語る善人と悪人の違いについて確かめました。武田先生は『なぜ?からはじまる歎異抄』の味わいのところで、「「悪人が救われる」のではなく、救われた人間の自覚が「悪人」だったのです。」とおさえてくださっています。そこに頷けるかどうかが第三条の肝だと思います。
次回は3月6日(水)14時から開催いたします。一条づつ読み進めておりますので、初めての方もお気軽にご参加ください。…
今日の『御文』(三帖目第五通)では、諸仏の願いに超えすぐれた大願が阿弥陀仏の誓願であるということの背景には、自身の愚かさと、実は阿弥陀如来の本願に十方衆生が出遇うことこそが諸仏の本当の願いがあるということを確かめた。
その後の『唯信鈔』では、衆生の悪業と弥陀の願力のどちらが深重であるかを考えた時に、悪業の方がまさると考えて苦悩する者にたいして、聖覚が弥陀の願力のほうがまさるということを、現に人間界に生まれたことなどを通して明らかにしていくところを見ました。…
今回は『阿弥陀経』の中で親鸞聖人が特に着目している、「執持名号」「一心不乱」といった言葉が出てくる箇所について学びました。「執持」という心堅牢にただ念仏申すという姿はとても素晴らしい姿ではあるが、多善根の念仏を一心不乱に極楽に生まれる為に、言い換えれば善根を積むような心から称える念仏を、親鸞聖人は自力の念仏と捉えました。ただ念仏の教えを通して、自身の信心について深く考えることが大切なのだと確かめました。
次回は2月12日(月)14時から開催いたしますので、お気軽にご参加ください。…
先月は私の体調不良により休会してしまいましたので、振り替えという形で開催しました。前回の続きとなります第二条の後半部分を輪読しました。前回を通じての第二条の確かめとして、身命をかえりみずして訪ねてきたいなかの人々に親鸞聖人が伝えたことは、念仏は極楽浄土に生まれる手段、方法ではないということ。そして、地獄ではなく極楽に生まれることが救いなのではなく、地獄を一定のすみかとして生きていける勇気、大地を賜ることが大事なのだということを共有しました。
次回は2月7日(水)14時から第三条を輪読していきますので、是非ご参加ください。
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旧年中は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。
今年度の修正会でも真宗門徒の生活について一年の始まりに皆さんと確かめました。毎年本願寺出版から出ている『真宗の生活』から2編を取り上げ、南無阿弥陀仏と念仏申す生活は、阿弥陀さんと共にあるということを感じて生きていくことであると学びました。…