今回は天親章の「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」の1句について見ました。特に阿弥陀の浄土をあらわす「蓮華蔵世界」という名の「蓮華」に着目しました。蓮華は淤泥華とも呼ばれますが、曇鸞大師は、
「淤泥華(おでいけ)」とは『経』(維摩経)に言わく、「高原の陸地(ろくじ)には、蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥に、いまし蓮華を生ず。」これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚(しょうがく)の華を生ずるに喩(たと)う。…
今回は天親章の「得至蓮華蔵世界 即証真如法性身」の1句について見ました。特に阿弥陀の浄土をあらわす「蓮華蔵世界」という名の「蓮華」に着目しました。蓮華は淤泥華とも呼ばれますが、曇鸞大師は、
「淤泥華(おでいけ)」とは『経』(維摩経)に言わく、「高原の陸地(ろくじ)には、蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥に、いまし蓮華を生ず。」これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚(しょうがく)の華を生ずるに喩(たと)う。…
今日の『御文』(二帖目第五通)で問題になっている数珠を持たないということから「姿」の大切さを確かめました。
『唯信鈔文意』では親鸞聖人が回心について「自力の心をひるがえし、すつる」と解釈なさっていることを中心に見ました。これまで聖覚が第十八願念仏往生の願意を表す文として引用した慈愍和尚の『般舟三昧経』の言葉を、親鸞聖人がどのように解釈し、いなかの人々に伝えようとしているのかを見てきました。その中で第十八願の一切衆生を決して見捨てない「平等の慈悲」は私のためであった「本願の機」と受け止めたときに、世間の価値意識や自力で生きていけるという思い込みから解放され、本願他力の智慧と慈悲のはたらきを受けて生きていく者に変えられたことを学ばせて頂いた。
次回は『唯信鈔』に戻って、聖覚の言葉を見ていきたいと思います。…
今回は「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」について見ました。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏と称えそのはたらきを賜る者は、必ず大会衆の数に入るのだと讃えておられます。「大会」というのは、阿弥陀さんの会座のことを指します。阿弥陀さんの教えを聞く場に身を置くということです。では大会衆の数に入るとはどういうことなのかと申しますと、それは師と友を賜るということです。我も人も共に南無阿弥陀仏と称え阿弥陀さんにたすけられていく身なのだと頷いていくあゆみを共にする者を賜るのです。
宮城先生は「必獲入大会衆数」について、…
今回は天親章の「広由本願力回向 為度群生彰一心」について見ました。「本願力回向」の、回向というのは、めぐらし差し向けるという意義です。この回向ということをどのように考えるのかということが親鸞聖人の教えの特徴ともいえます。…
式次第・真宗宗歌斉唱・勤行(伽陀、『仏説阿弥陀経』、正信偈同朋奉讃式、『御文』三帖目第三通)・法話・恩徳讃斉唱
今年から永代経法要も兼ねて厳修することになりました。亡くなる縁に会えば浄土に還る、その歩みを名響寺に集う方たちと考えていく大事なご縁、諸仏となって下さった事を改めて感謝申し上げます。
今回はロシアがウクライナに侵攻した事を受けて、「正当化」と「慚愧」いう事をキーワードに考えました。人は自らの愚かさを隠したり自らが身をよしと思う時、「正当化」して他者を傷つけていきます。それに対し、自らの身自らの行為をしっかりと見つめ、自らの身をよしと思うこころが離れた時には「慚愧」の心のみが残ります。しかし、その愧じる心こそが人間の心なのだと『涅槃経』のギバ大臣は言います。「慚愧があればこそ、父母や師や年長の人を恭敬うことができるのであり、慚愧があればこそ、父母・兄弟・姉妹があることの意味がわかる」と、愧じる心が人間の心であり、関係存在であることの気付きであると言うのです。…
今回は「依修多羅顕真実 光闡横超大誓願」について見ました。「依」という事について、曇鸞大師は、「何所依・何故依・如何依」という三依ということを言っております。あなたは、いったいどこに依って人生を生きていこうとしているのか、なぜそれに依るのか、どのように依るのか、ということです。それがはっきりする事によってこの人生を生き抜き亡くなって行けるのだということです。
それは「依修多羅顕真実」ですので修多羅に依るのだと。修多羅とはサンスクリット語のスートラの音写になります。意味は経典です。その修多羅とは、ここでは直接的には『大無量寿経』を言っているわけです。『大無量寿経』が顕かにした真実に依るのだと。三依で言えば、どこに依って生きていくかといえば、『大無量寿経』が顕す真実に依るのだということです。どうしてそれに依るのかといえば、それが私一人を救うために阿弥陀さんが慈悲心でもって本願を建てられたからだと。そして、どのように依るかといえば、阿弥陀さんの南無阿弥陀仏と念仏申す者を決して見捨てないという願いを信じて念仏申すということになります。…
先ずロシアのウクライナ侵攻を受けて、自分が考えることをお伝えしました。そして今月の『御文』では、「超世の本願」に出てくるような問いの大切さを確かめました。『唯信鈔文意』では、前回課題として残っていた、『涅槃経』に説かれる六師外道の話と月愛三昧の話を見ることで、慚愧の心の大切さ、自己の正当化では救われがたい事実、釈尊が観ておられた善心等について考えました。
次回は4月27日と少し間があいてしまいますが、『唯信鈔文意』の言葉に戻って「回心」「変成」などとても大事な言葉が続くところを読んでいきたいと思います。…
今回の『御文』(二帖目第三通)でも神明を軽んじる問題が取り上げられております。その中で本地垂迹説ということが出てきたので、本地垂迹説という論理と、親鸞聖人が廃仏派の物部守屋について謳った「弓削の守屋の大連 邪見きわまりなきゆえに よろずのものをすすめんと …
今回から天親章に入っていきます。「天親菩薩造説 帰命無碍光如来」の一句について見ました。天親菩薩その人と天親菩薩が著した『浄土論』を通して親鸞聖人が『大無量寿経』の精神に触れたという事を確かめた。そして、帰命十方無碍光如来という『浄土論』の言葉を通して、尽十方にして無碍なる光が届くのはこの私なのだということを尋ねました。
次回は2月14日(月)14時~になります。少しでも写教にご興味がございましたらお問い合わせください。…
2023年は親鸞聖人御誕生850年、立教開宗800年の慶讃法要が本山で勤まります。その慶讃法要のテーマというのが「南無阿弥陀仏―人と生まれた意義をたずねていこう―」というものであります。今年の修正会では、慶讃テーマの「生まれた」という事に着目して、両親の元「人間」として生まれたことを仏教ではどのように捉えているのか、また、釈迦弥陀の慈悲によって「信心の行者」として誕生した者の営みという事を考えるなかで、阿弥陀さんと共に生きるという事をたしかめさせていただきました。
本年も名響寺に集い共に阿弥陀さんの願いを聞いて参りましょう。よろしくお願い申し上げます。…