
今回は『歎異抄』第三条について見ました。特に、世間の人々が考える善人と悪人と、親鸞聖人が語る善人と悪人の違いについて確かめました。武田先生は『なぜ?からはじまる歎異抄』の味わいのところで、「「悪人が救われる」のではなく、救われた人間の自覚が「悪人」だったのです。」とおさえてくださっています。そこに頷けるかどうかが第三条の肝だと思います。
次回は3月6日(水)14時から開催いたします。一条づつ読み進めておりますので、初めての方もお気軽にご参加ください。…
今回は『歎異抄』第三条について見ました。特に、世間の人々が考える善人と悪人と、親鸞聖人が語る善人と悪人の違いについて確かめました。武田先生は『なぜ?からはじまる歎異抄』の味わいのところで、「「悪人が救われる」のではなく、救われた人間の自覚が「悪人」だったのです。」とおさえてくださっています。そこに頷けるかどうかが第三条の肝だと思います。
次回は3月6日(水)14時から開催いたします。一条づつ読み進めておりますので、初めての方もお気軽にご参加ください。…
今日の『御文』(三帖目第五通)では、諸仏の願いに超えすぐれた大願が阿弥陀仏の誓願であるということの背景には、自身の愚かさと、実は阿弥陀如来の本願に十方衆生が出遇うことこそが諸仏の本当の願いがあるということを確かめた。
その後の『唯信鈔』では、衆生の悪業と弥陀の願力のどちらが深重であるかを考えた時に、悪業の方がまさると考えて苦悩する者にたいして、聖覚が弥陀の願力のほうがまさるということを、現に人間界に生まれたことなどを通して明らかにしていくところを見ました。…
今回は『阿弥陀経』の中で親鸞聖人が特に着目している、「執持名号」「一心不乱」といった言葉が出てくる箇所について学びました。「執持」という心堅牢にただ念仏申すという姿はとても素晴らしい姿ではあるが、多善根の念仏を一心不乱に極楽に生まれる為に、言い換えれば善根を積むような心から称える念仏を、親鸞聖人は自力の念仏と捉えました。ただ念仏の教えを通して、自身の信心について深く考えることが大切なのだと確かめました。
次回は2月12日(月)14時から開催いたしますので、お気軽にご参加ください。…
先月は私の体調不良により休会してしまいましたので、振り替えという形で開催しました。前回の続きとなります第二条の後半部分を輪読しました。前回を通じての第二条の確かめとして、身命をかえりみずして訪ねてきたいなかの人々に親鸞聖人が伝えたことは、念仏は極楽浄土に生まれる手段、方法ではないということ。そして、地獄ではなく極楽に生まれることが救いなのではなく、地獄を一定のすみかとして生きていける勇気、大地を賜ることが大事なのだということを共有しました。
次回は2月7日(水)14時から第三条を輪読していきますので、是非ご参加ください。
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旧年中は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。
今年度の修正会でも真宗門徒の生活について一年の始まりに皆さんと確かめました。毎年本願寺出版から出ている『真宗の生活』から2編を取り上げ、南無阿弥陀仏と念仏申す生活は、阿弥陀さんと共にあるということを感じて生きていくことであると学びました。…
今回は三帖目第四通「大聖世尊」を見た後、『唯信鈔』の最後にある問答の一番目を見ました。『唯信鈔』では、臨終の念仏の功徳と平生の念仏の功徳では、臨終の念仏の方がはるかに功徳があるという考えについて、聖覚がどのように説いているのかということを見ていくなかで、自らの命が危うくなった時には、様々なものに頼ってなんとかしたいという思いが強くなるということが指摘されていました。普通は病に倒れれば、健康になることが救いであると考えるが、真宗ではそれを受け止める勇気を阿弥陀仏からたまわって生きて行くことが救いであるということを、「大聖世尊」の『御文』の流れで確かめた。
その後は、仏具のおみがきをおこないました。お集まりいただきました皆さまが一生懸命に磨いてくださったおかげで、とても綺麗になりました。本当にありがとうございました。
修正会を1月1日11時から厳修いたしますので、年の始まりに是非お参りください。…
今回は「諸上善人 俱会一処」という言葉について見ました。「俱会一処」は真宗の墓石に刻まれていることもあるので、見たことがあるという方は多いかもしれません。『阿弥陀経』の文脈では、「諸上善人 俱会一処」であるから、阿弥陀の浄土に生まれたいという願いがおこるのだといいます。この諸上善人というのは、尊い存在ということです。尊いというのは、阿弥陀さんが自身に願いをかけていることに気付き南無阿弥陀仏と念仏を申す生活を送っている姿です。阿弥陀さんの願いが自身に届いたという覚知は、同時に隣の人に等しく届いているという覚知でしょう。そこに「俱に」という人間のもとめるものが成就する。煩悩具足の凡夫である私に尊い根拠はありませんが、阿弥陀さんに念仏申せと願われその願いに応えて念仏申す姿は尊いのです。それはまた、念仏申す仲間を見出していくことにもなるのでしょう。…
今日の『御文』(三帖目第三通)は河尻性光門徒に宛てたお手紙です。河尻というのは、現在でいえば吉崎別院がある所だそうです。そこにも、親鸞聖人の教えと異なった受け止めがなされているということです。二つの誤りが説かれています。そのうちの一つ、「無信単称」ということが今日読む『唯信鈔文意』のところにも関わってきますので着目しますと、無信単称というのは、ただ口に称名すれば極楽に往生するように思うということです。蓮如上人が度々注意を促してくださっているのが、その「いわれ」を知りなさいということでした。つまり、阿弥陀如来が全ての衆生を救いたいと思い立ち上がり念仏申せと仰ったのは、愚かな私一人を救うためであったと頷いていくことです。信というのは頷き、そうであったという頷き、私には念仏より他にたすかる法はないという頷きです。口に念仏申す。その姿は尊いです。入口はそれで充分なのです。ただ、それだけではもったいないということでしょう。お念仏の「いわれ」を聞いていく。「いわれ」を聞いて頷いて、いよいよ念仏申す身になっていく。そこが大事なのだと蓮如上人は伝えてくださっているのです。『唯信鈔』『唯信鈔文意』では、「念」は「称」であることが大きなこととして出てきます。観想念仏ではなく称名念仏という知見が善導大師によって明らかにされました。この無信単称という課題は、念仏というのは称名念仏なのだということが明らかになった後に出て来た課題ということになると言えましょう。その課題が別の形で表れたのが「一念多念という争い」です。
『唯信鈔文意』で第十八願文の言葉を解釈するところで、親鸞聖人は「乃至」という言葉をとおして、こちら側の条件がないことを教えています。本来、こちらからの条件はないのだけれど、衆生の方が色々とはからって一念義・多念義という優劣をつけ、往生に条件を付けていくのです。これは人間の業といいますか、法蔵菩薩の願いをも、自分の思うようにはからって、自分の解釈が正しい、善い解釈なのだとしていってしまう。そのような課題が親鸞聖人の時代にもあったのです。
次回のおたいやは12月27日になります。年末でお忙しいとは思いますが、仏具のおみがきもございますので是非お力添えください。…
今回は、何故に「阿弥陀」と名づけるのかというところが説かれるところを見ました。そこには、光明無量・寿命無量・人民無量が語られます。量りしれない空間と時間でもって一切衆生を摂め取って捨てないはたらきを「阿弥陀」という3字は表しているということを確かめました。
次回は12月11日(月)14時~開催予定ですので、お気軽にご参加ください。…
今回は第二条の前半部分「往生ってなに?」を輪読しました。
「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という教えを聞いていた関東の御門弟が、親鸞聖人が京都に戻られた後、その教えに立って生きていくことに不安を覚えて直接親鸞聖人に会って話を聞きたいという事柄を通して、門弟達の心根や念仏をどのような思いで称えているか、そして往生という事をどのように考えているかという課題を見ました。…